鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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ここで問題にしたいのは,5)のレアリテの段階である。それは3つに区分けされている。それぞれの内容の要点を検討しよう。①は奇妙な標題がついているが,ホールの発想、の種は,サルトルの「ジャコメツテイの絵画J(Derriere le Miroir, No.65, Ma巴ghtEditeur, 1954.再録Situation1V, 「ジャコメッテイの芸術は,この奇術師の技術に近い。われわれはごまかされている者であり,加坦者である。(中略)彼が意図するのは,われわれに一つのイマージ、ユを示すことではなく,擬像を作ること,全く擬像になりきりながら,実際の人間との遭遇が普通ひき起こすような感情や態度をわれわれのなかに生じさせる擬像を作ることである。…中略…芸術家は想像の領域で仕事をすること,われわれが創造するのは実物とまちがわせるものだけであることを彼はず、っと以前から理解していた。(中略)夜遅く家に帰る途中,見知らぬ者が暗閣の下でこちらに向かつてくる時にわれわれが感じるあのショックを。そのときジャコメッティは,彼がその絵によって現実の感動を生じさせたことを,そして彼の擬像が虚構であることをやめることなしに本当の力を数瞬もち得たことを知るだろう。J(邦訳『シチュアシオンN.l人文書院,1964年,308頁)ホールの分析は,上記のサルトルの解釈をふまえて,この時期のジャコメッテイの絵画は,その前の段階である遠近法および鏡面としての画面の組織化から,今度はそれに代わって,混沌とした灰色の拡がりとしての画面のなかに,デイエゴの頭部を白や黒の描線を使って幻のごとく出現させている手法を,まるで交霊術師が霊を出現させたり消失させたりするやり方に似ていると言っているのである。しかし,サルトルの考えもホールの分析も,私は納得しない。なぜなら,ジャコメッティは,その晩年まで,つまり1965年まで混沌とした灰色の画布に,デイエゴ,ヤナイハラ,カロリーヌ,アネットといったモデルを前にして,このような肖像を描き続けているからである。したがって,それはファンタスティックないし想像上のシチュエーションではなく,眼の前の瞬間的なものではなく,強固な現実である。問題はなぜ灰色になるのか③ 現実の空間に描き込んだ,レアリテの分身としての芸術作品(1958-1965)Gallimard, 1964)に基づく。そのエッセーでサルトルは次のように書いている。-62-

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