鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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ったので,そこに複雑なものを発見しようとするジャコメッテイにとっては都合がよかった,というのである。むろんデユプレーヌは,作品を周到に分析した上で,ジャコメッティの晩年の創造の飛躍をなすものは,まさにヤナイハラの危機を通過することが必要であった,としている。最後に,この時期,ヤナイハラとジャコメッティとの仕事の目撃者であるジャン・ジュネの意見を,ジュネの前掲書から引用する。「日本人の顔とのジヤコメッティの格闘。彼がその肖像画を描いていたヤナイハラという日本の教授は,その出発を2ヵ月遅らさねばならなくなった。ジャコメッテイは決して満足することなく,毎日夕ブローをやり直していた。教授は肖像画なしで日本に戻った。凹凸がなく,謹厳で、穏やかなその顔がジャコメツテイの天才を誘惑したに違いなかった。残ったタブローの数々は,すばらしい強さをもっている,いくつかの灰色の,ほとんど白い線が,ほとんど黒い灰色の背景にある。そして,私が語っていたのは,あの同じ生の堆積。そこへは,他のもの,さらにー粒の生も加える方法もない。それらのタブローは,その生が生気のない物質に似ているといったような最終的な点にまできている。吸引された顔J(筆者訳)ジ、ユネの文章は,難解だが,ジャコメツティがどれだけ徹底してヤナイハラを描いていたか,理解できるのではないだ、ろうか。絵の具の層を何度も重ね,それを何度も剥ぎ取ってできたヤナイハラの肖像〔図1)は,まさにジュネの見方の正しさを示している。次に①の「現実の空間に描き込んだ,レアリテの分身としての芸術作品」に移ろう。この標題から,①の想像的な空間に対立する設定を,ホールが行っていることがわかるであろう。しかし,この問題は,先に①の検討において,ホールの戦略を私は打破した。しかし,この時期に対する彼の分析は,ジャコメッティ芸術においてもっとも重要なので,検討を進めよう。先ずホールは,1959年から,ジャコメッティの最後のスタイルが現われる,という。それは,芸術と現実,抽象的形体と人体,自然的形体と様式化された形体との対立を乗り越えたスタイルである,という。これは,どういうことかというと,1私は決して-67-

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