⑧蜂川式j乱の研究研究者:東京都江戸東京博物館学芸員米崎清実はじめに天保6年(1835)京都東寺の公人賂川家に生まれた式胤は,明治2年(1869)岩倉具視らの招鴨により上京し,明治政府の制度局取調御用掛,外務省編輯課,文部省博物局を歴任した。賂川式胤は,明治4年(1871)の九段坂上の物産会,明治5年(1872)の湯島聖堂での博覧会の開催などに携わり,博物館の建設を進める一方,荒廃していく江戸城の写真撮影をするなど,古器旧物の保存を図った。シーボルトやキヨソーネ,モースなどとも親交が深く,日本の古美術や生活用具を広く海外に紹介した事績でも知られている。なかでも著名な事績は,明治5年に近畿地方の社寺宝物調査を行い,その一環として正倉院の開封に立ち会い,資料調査に携わったことである。これらの事績から,式胤については,博覧会・博物館の創始者,文化財保護の先覚者,日本の古美術の海外への紹介者などさまざまな歴史的な位置づけが与えられている。このように賂川式胤は,明治初期における数々の文化政策に携わったので,彼の事績を追跡していくことは,日本の近代国家形成期の文化政策を検証していくことにつながるものといえる。しかし,従来,峰川式胤の事績は個別に紹介されたにすぎず(注さて,このような日本の近代国家形成期における文化政策に関する研究の立ち後れは,史料的な限界によるところが大きい。明治初期における歴史研究は,主に維新の元勲といわれる政府の上級官僚を中心に進められてきた。実際の実務を担った人びとの事績については史料的限界があったため,文化政策の企画,立案は従来ほとんど明らかにされてこなかったのである。進めてきたが,その報告書としての小稿では,式胤の日記を主な史料として,明治5年の社寺宝物調査を単独で扱うのではなく明治初期以来の式胤の意識や動向と関連させて,その意義を考えてみたい。l 時川式胤関係史料の現存状況時川式胤の孫,第一氏による「時川式胤追慕録J(昭和8年(1933)4月刊行,以下1 ) ,近代国家形成期における式胤の役割については今後の課題と言わざるを得ない。2000年度鹿島美術研究助成金を受け,式胤関係史料を活字化するための準備作業を明治5年社寺宝物調査を中心に一一-72-
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