「追慕録jと略記する)には,京都で開催された「峰川式胤五十周年記念遺品陳列目録」が掲載されている。それによると式胤の関係史料は,第七類に分類されている津宣嘉,町田久成,神田孝平,森有礼,福羽美静,モース,シーボルト,ジブスケなどの「交友書簡等」とともに第一類の「肖像・碑文・著作等」に掲げられている。第一類には,「少史拝任の辞令J(明治2年9月25日),i軍服制定に関する上書J(明治3年4月),辞令35通,i古社寺宝物検査並に博物館建設に関する上書J,i千代田城郭の撮影に関する弁官への伺状並に許可J(明治4年2月)などとともに,i奈良の筋道J3冊,i八重の残l冊,i明治5年社寺宝物調査記J1冊が掲げられている。これらの日記類は,式胤の思想や行動を考察する上で恰好の素材である。さて,筆者の調査では,第一氏が「追慕録」において掲げたすべての記録を見いだすことはできなかった。しかし,今後の式胤研究の第一歩として,現存する史料から式胤の活動を復元していく必要があろう。そこで,本節では,確認できた式胤関係史料の中から,日記類について,その概要を紹介していこう。筆者が確認できた日記は次の通りである。「奈良の筋道J3冊,i椎の落葉J6冊,i洋装の日記J3冊,i東京下向記J1冊。また表題は記されていないが,明らかに式胤が制度局取調御用掛在任中,東京に在住している時の日記3冊を見いだすことが出来た。「追慕録」に記されいる「東京下向記J3冊がこの表題の記されていない日記であるかどうかはわからない。「洋装の日記J3冊は,いずれも革製の手帳で,第一冊目の表紙には「社寺宝物検査巡回中式胤所持手帳三冊jと題集が貼付されている。しかし,これら日記の冒頭には「明治五年壬申七月四日於京都求之J(第一冊目),i明治五年壬申七月於京都求之J(第二冊目),i明治五年壬申九月十七日於京都求之J(第三冊白)と記されており,明治5年の社寺宝物検査の最中の京都で購入されたものであることがわかる。これらの日記(以下「社寺宝物巡回記」と略記する)はいずれも鉛筆で記入され,i奈良の筋道」のような写真は貼り付けられていない。第一冊目の冒頭には明治5年5月15日に式胤が文部省から社寺宝物検査の出張を命じられた辞令が写され,出張の日数,費用の見積もり,太政官が文部省に宝物検査のため官員出張を命じた5月7日付の達,巡行之者出張心得方,太政官から府県への達,正院から宮内省への達と続く。そして,出張者名を記した後,5月27日東京出立から8月17日までが記されている。第二冊目は8月花J2冊,i椎の落葉J6冊,i不二の下草J1冊,i洋装の日記J3冊,i東京下向の記j-73 -
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