18日から9月19日まで,第三冊目は9月20日から翌明治6年の5月までが記されている。「奈良の筋道」と「社寺宝物巡回記jとの内容を比較してみると,両者はほとんど一致していることがうかがえる。しかし,各所において「奈良の筋道」と比べて.1社寺宝物調査巡回記」は簡略な記述となっている。調査出立以前の横山松三郎を同行させる記載について両者を紹介してみよう。写真師横山松三郎を同行して,巡回の先々ニ而古器物及古き建物を写真ニ取らせて,博物館の沿革ニ備へ度,町田・蜂川見込ニ決シ,私費ニ而仕ル可くの処,此写真填国へも廻し候ハ、宜敷ニ付,填国博覧会事務局より右巡回ノ先々ニ市写真致し候様ニ随行被仰付,入費金及路費迄此局より出ル事ニ相成り申候(1奈良の筋道J)横山松三郎博覧事務局より右検査ノ先々ニ市写真致し候様ニトテ随行被仰付申候(1社寺宝物巡回記J)「杜寺宝物巡回記」の内容がどの程度調査の現場で記されたものかどうかわからないが.1奈良の筋道jは「社寺宝物巡回記jより後に記されたものであることは確かだろう。2 制度局時代の式胤式胤は,明治2年6月制度調査御用掛,同年7月には制度局取調御用掛に任命された。当時の制度局の陣容は,峰川の他に福羽美静,神田孝平,加藤弘之,小中村清矩,丸山作楽といった明治政府の実務を担う精鋭たちであった。この制度局時代の式胤について,宮内省図書寮御用掛猪熊信男は「追慕録Jにおいて次のように紹介している。昼夜を分たず,体得の謹蓄を傾け,宮中府中の別なく,制度の調査に没頭せり,制度の種類も兵制,民法,商法,農法,工法,刑法,税法,華族式,在官式,冠婚葬祭礼,楽,乃至即位参賀朝賀の大礼に渉り,今にして考察すれば,現時に於ける宮内省,内閣諸官省の諸般を網羅するものに当し,多種多様,広汎実に驚く可かりしに,君は悉く之に指を染めて,一々参画せざるなく,一々立証せざるなく,政府の期待を裏切らざる事,恰も鐘を叩いて忽ち響を聞くが如し式胤が制度局のさまざまな制度の立案業務に関わっていたことを賛している。制度局の陣容を考えると,広汎な内容を調査していたことは推測されよう。74
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