鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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ところで,今回の調査では,制度局取調御用掛時代の書簡写や事務資料,建議書案をはじめとして,明治5年の社寺宝物調査以前の式胤の動向をうかがえる資料を見いだすことができた。それらの史料の中でとりわけ質量ともに抜きんでているのが,服制改正に関わるものである。明治政府は明治元年6月服制制定について在京の藩主・貢士たちに諮問をしている(注2)。しかし,式胤はそれ以前から服制制定に関する考証を著している。明治元年の式胤の著作としては「冠服制度図考証J(明治元年4月),I国体論服略弁J(明治元年9月),I本朝服制略弁J(明治元年11月),I烏帽子愚考J(明治元年)などがある。これらの著作は式胤が東京に上京する以前のものであり,当時から服制に関する意見をまとめていることは注目される。明治3年7月には「制服考Jを著し,同年後半期には盛んに関係各方面に式胤の考えに基づく服制制定を図っている。明治3年半ばから年末にかけての東京在住時の日記には次のような記載が見られる。一薩長へ服制ノ御下問ニ,去ル七月初御廻しの処,九月中頃ニ返り候よし,則右本参り尋候処,本ハ返り候へ共,薩長ノ見込ハ不知由ニ市ハ当正月より改服ニモ相成度候ことなれハ,少シモ早く御決定ニ相成度由申候ヘハ,心得居るとの事也,又軍服モ未た御決定ニハ不相成候,是ハ知何と問候ヘハ,兵部省の見込も制度ノ見込も判然と日本風と一日ニ見ヘす候間,其億二致し置候事也,此方ニ於テハ人ニハガンコと申カワ知ラね共,外国の事タリ共,取可きハ早ク取り,不取ハ万年立テモ不取ト考ヘ申候間,軍服ニモ日本風ト一目ニ見ヘ候見込ノ出来迄ト考ヘ居申候間,成る丈日本風ニするとの事ニ而,夫レハ私ニ取テモ洋癖人計り故ニタノモシキことトテ退座す意味をとりづらい箇所もあるが,太政官では制度局以外の薩長出身者にも服制を諮っていたようである。また,軍服については兵部省と制度局に諮っていたことがうかがえる。しかし,軍服は制定されておらず,その理由は一目で日本風と認識することができないものであったからという。それに対して,式胤は好意的な見解を記している。一九月廿日岩公へ行,御面会ニ而女官服制ノ新古上申候,(中略)服制ノ薩長へ御下問も返り候様ニ承り,是ハ如何御座候と伺候処,御廻しノ本ハ返り候へ共,勅答J\局へ政庁より御返しニ而候へ共,何共御日出無く,十五日朝副嶋参議一人ノ所へ-75 -

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