と申事ハ無之由ニ而,何共戻し固く候へ共,直不何事,出れ其内ニハ御評義ニも相成事との御事即刻徳大寺殿へ行,御面会ニ而軍服ノ日本風ニ少しニても相成候様ニ申上候ヘハ,可成丈日本風の印ノ付く様ニ可心得候由御申ニ而,裁縫もヤソノ裳衣制ヲ申上候ヘハ,是モ御承知也,然しヤそ風ノ無キ分ハ外国制ニても可然と御申也式胤は,岩倉具視や徳大寺実則ら旧来の人脈を利用して,日本風の服制制定を進めようとしていたことがうかがえる。明治3年段階で,式胤は軍服の試作品まで作っている(注3)。制度局も藩制と禄制と本局と口ニ市,三局ニ相成申候事一此頃又軍服制矩足相立候様ニ兵部省と談之の処,彼是相談仕り候へ共,未た両方ノ見込一決不仕候事,兵部省ハ只フラス風ーへんの見込,局ハ我国ノ古意不失して,戦争ノ便ハ彼と同つする論ニ而,国風ニ至る見込也版籍奉還の後,いまだに諸制度の整備を急務としていた明治政府の中で,制度局では多くの制度考証の案件に携わっており,事務分担を分けたことがうかがわれる。その中で,式胤は服制制定を主とする任務に就いていたようである。そして,式胤にとって,服制制定の日本風の考証の基礎となったものが,六回史などとならんで社寺に残る絵画,考古資料であった。「冠服制度図考証」では,河内国誉田八幡宮所蔵の応神天皇御影,広隆寺所蔵大僻神社の素酒公・弓月王・秦川勝像,法隆寺所蔵聖徳太子画像などをあげて,冠制や服制の考証を行っている。各地の寺社を廻り,豊富な知識を持っていた式胤が各種の制度制定にあたり重要な役割を担っていたことがうかがえる。式胤自身も正倉院の調査に携わりたい意向を以前から持っていたに違いない。「奈良の筋道jには,正倉院の開扉が明治5年1月には予定されており,文部省の意向を受けて宮内省から「醍醐殿jが奈良に御封を携えて出張していたこと,また,神祇官,民部省,宮内省は早くから太政官へ開扉を申し立てていたことが記されている。明治3年の日記にはそれを裏付けるように,次のような記載が見られる。東大寺正倉院開封ノこと山中静逸咽有り,又岩下モ左様ノ時ニ参り度由被申,又寺嶋もいつか御開き有りて,御調へ有り度由被申,青木も同様,何れも私ニ進め,又私ニ望申候,此間も租税帳見度由,民部省申事ニ付,急ニ開封と申処,写し外ニ有之ニ付,其辺ニ不至,此廿二日大隈参議へ行,此日出仕り,又服制ノ事も尋,又帰省76
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