鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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3 明治5年の社寺宝物調査と式胤に5月27日に東京を出立し,東海道を経由して,4ヶ月以上にも及ぶ東海から近畿にノことモ尋候処,右開封一条申出候而,此御用ニ而帰京候か宜敷申され式胤の胸中にはすでに明治3年段階から正倉院の調査が念頭におかれていた。また,民部省も租税帳調査のため正倉院の開封を考えていたことがうかがわれる。旧習撤廃や神仏分離政策を契機とする廃仏致釈の風潮の中で,社寺宝物調査を実施して,古器旧物の保存を図ることは,式胤にとって急務の課題だったに違いない。それは,明治4年5月の古器旧物保存の布告にも記されているように,I古今時勢之変遷,制度風俗ノ沿革ヲ考証Jするという現実的な課題をも担っていたからであった。実際,式胤の日記から服制制定や民部省の動向がうかがえたように,正倉院をはじめとする社寺宝物調査は,明治初期の制度制定の考証という目的ももっていたといえる。周知の通り,正倉院を含む明治5年の社寺宝物調査は,翌年に開催されるウィーン万国博覧会に明治政府が出品するために具体化した。しかし,前述したように,その前年の5月29日には古器旧物保存の布告が出され,博覧会・展覧会,古器旧物保存など明治初期の諸制度が「混沌とした過程の中でJ(注4)いわゆる壬申の調査が決定されていった。式胤は,町田久成,岸光景,内田正雄,世古延世,横山松三郎らとともかけての宝物調査に向かうことになった。念願だ、っただろう正倉院調査に携わり,式胤は喜びの表情を隠せない。若草山へまわり市立なから月を一見シ,次ニ林中より春日鳥居筋へ出る,帰る道すしを笛私吹,町田ハ口笛ニ而甲乙ニつけらる、意外ノ遊ひ也,鹿の声を一声うけ終り,次ニ猿沢の池の月,是ハ池水高く市他ニ無之御用先ニ而,か〉る此辺ノ月見るトハ思ひきや,公使の雑用を忘れ極楽とハ此事なる可しまた,調査が終了した後には次のような感想、が述べられている。東大寺宝物検査今日ニテ終ル也,今度検査ニ人員毎朝出懸ル処ハ芝居ヲ見ニ行ク心ちニテ,休日も無ク,又早朝より楽シミテ行,又向ニテハ,楽シミテモアカズ,又夕方ニ及ブニヲソシトセズ,ホコリヲカフル共更ニ不困也では,式胤の調査対象はどのようなものだったのか。「奈良の筋道」の記載内容は,調査の先々での風景や人びとの風俗とならんで建造物,社寺の什宝,仏像など広汎なものとなっている。事前連絡をし,調査する宝物を準備-77 -

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