鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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物についても,何らかの傾向をうかがうことができるかもしれない。一方,社寺宝物調査の過程においても,式胤は服制に注目している。寺僧太子堂案内ニテ懸シ申候,存外古ク,服ハ誠に筒袖ノ袖ニテ,首紙一向無之,今ノ支那人ノ如シ,又左右ノ童子ノ髪ハ唐子ノ様ニシテ,髪ヲ左右ニ分ケ,末ヲ折リ曲ケ,紐ニテ結フ様実ニ古シ,又闘肢ノ衣ノ間より下衣ノ裾見エル様又太万ヲ持シ,其制実ニ古シ,太子ノ前ニ浅沓有り,是又古シ,古ノ制ヲ見ルニタル,是迄H出シニ開シより一見シテ古キヲ思ヒヤル(,奈良の筋道J)また,次のような記載も見られる。法隆寺の塔ノ中土人形内外ノ人有り,女ハ唐衣ニ裳ト見ユ,男ハ冠ニ袖袖筒ニシテ向ヘ長ク推古頃ノ風ヲ知ル,甲ヲキタル隼人有り,是レ全ク古ノ甲ノ制ヲ思ヒヤラル\小人物ハ袖ト同シ,前ニ銀有り,五ヒハツノ人有り,何レモ鳥仏師ノ作ニテ考証ニタル(,奈良の筋道J)いずれも法隆寺を調査した際の記載であるが,画像や土人形から古代の服飾を読み取ろうとしていることがわかる。「奈良の筋道」の末尾には,,巡回出品中美物ノ尤主タル物」が記されているが,木像としては広隆寺の酒公,弓月王,川勝の三像しかあげられていない。この三像は,明治元年に著した「冠服制度図考証」に掲げられているものである。木像の数に比べて,「画古物jとしては東寺七祖など16点があげられている。明治5年の社寺宝物調査の際にも,制度局取調御用掛時代に専念していた服制改正を主とする制度考証の視点を継続して調査にあたっていたことがうかがえる。おわりに小稿では現存する式胤関係の史料の中から式胤の日記の概要を紹介した。そして,式胤の日記から,制度局取調御用掛時代,式胤がとりわけ服制制定に専念していたこと,一方,制度考証のために正倉院の開封が政府内部で案件として持ち上がったことを確認した。さらに,服制制定に向けられた式胤の視点は,明治5年の社寺宝物調査の際にも保持されていたことを見てきた。明治初期の文化政策が,古器旧物の保存,殖産興業と密接な関連をもっ博覧会の開催などと絡み合いながら展開していったことは言うまでもないが,明治4年5月の古器旧物保存の布告冒頭に記されているように,古器旧物の保存には,制度考証という日本の近代国家形成期固有の課題を背景と-79 -

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