縁起絵巻J(真正極楽寺)はじめ16世紀の絵画に徴すれば,確かに関係があったことが判明する。「山王霊験記絵巻」の場合も同様として大過なかろう。以上のことから,早い時期では振袖は幼少で、,かつ,聖性・富貴といった要素を備えた上格者に限って着用できたと見倣される。さて,幼少という表現を用いてきたが,男性の場合,それは具体的にどのような年齢層にあるのだろうか。「山王霊験記絵巻Jなど絵巻では情報量が不足するので,時代は隔たるが,描かれた人物の履歴が比較的判明し易い肖像画を手がかりにしたい。まず注目されるのは,天正15年(1587)賛の「細川蓮丸像J(聴松院)と文禄3年(1592)賛の「松井与八郎像J(宝泉寺)とである。像主二人は相似た格好をしているが,袖の振りの有無という点で大きな相違がある。すなわち,蓮丸が振袖であるのに対し,与八郎は振袖でない。年齢に関しては,ともに元服を終えた姿であるが,蓮丸は12歳と推されており,与八郎は賛から16歳であったことが判る。12歳と16歳の聞には,大きく期を画す15歳という通過点があった。15歳は一般的に元服の年齢とされているが,それよりも前に行う例も多い。ただし,元服を終えたからといってすぐに一人前の扱いとされたわけではなく,おとなとして責任ある役割を一応果たすようになるのは15歳をまっていた。「細川蓮丸像」と「松井与八郎像jとからは,振袖着用の年齢規定として15歳までが浮かび上がってくる。次に注目されるのは,江戸時代に入つての制作になるが,I豊臣秀次画像J(瑞泉寺)である。秀次(1568-95)と彼に殉死した人物が描かれており,その中に三人の若々しいほほ同じ格好の人物がいる。すなわち,山本主殿・不破万作・山田三十郎である。このうち不破万作が振袖であるのに対し,他の二人は振袖でない。年齢については,書き入れによって万作が17歳,他の二人が19歳であったことが判明する。そして,17 歳と19歳の聞にも,大きく期を画す18歳という通過点があった。18歳は身体上の成長を終え,おとなの肉体が完成する年頃と捉えられていた。「豊臣秀次画像jからは,振袖着用の年齢規定として18歳までが浮かび上がってくる。そして,文献からでは,r諸大名出仕記Jに,元服前だが元服後でも年齢によりわきあけとする,という記述が見られる。時代に伴う変化が検討課題として残るが,以上を総合して判断すると,振袖が着用できるのは基本的に元服前だが,元服後でも15歳まではまずは着用が認められ,それを過ぎてもせいぜい18歳までと考えられる。どんなに年齢が進んでも,自立の年齢と-85
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