されていた20歳を超えることは通常ないだろう。さて,現存「山王霊験記絵巻Jには転写本としての性格がある。すると,振袖という形態,及び,その着用規定の確立が更に遡ることも考えられる。実際,若干遡って15世紀中頃手前の風俗を示すと考え得る振袖が描かれた作例を見出している。その成立時期についての論証はあまりにも煩雑となるのでここでは控えるが,着用規定については以上でみたことに改変を加えることはない。確立期についてもおよそ15世紀中頃,遡っても応永期15世紀初頭頃までとして良いだろう。勿論,以前に振袖が無かった可能性は皆無でないが,あったとしてもそれほど重要性は帯びておらず,広範に定着し確立したと言えるようになるのは15世紀中頃と考えられる。3.時代に関する問題15世紀中頃の小袖型服飾をめぐる状況振袖の確立期についての如上の見解は,小袖型服飾をめぐる時代の状況が傍証となり得る。まず,15世紀中頃に袷が小袖から文節される動向が認められる。袷と小袖との相違は,中入綿の有無であるため,連続的で微妙なところがあった。山科教言(13281410)の『教言卿記』や貞成親王(1372-1456)の『看聞日記jでは,袷という語棄は独立して用いられておらず,小袖の注記として使われている。また,経覚(1395-1473)の『経覚私要室長、.1(現在公刊分迄)でも,更衣は小袖と雌子とで語られ,その聞を渡してしかるべき袷は見えていない(康正3年6月2日条他)。それが,記主が次代以降となる『山科家札記.1(記録年間1412~92)や尋尊(1430-1508)の『大乗院寺社雑事記』では,袷は独立して用いられている。従って,15世紀中頃に袷が小袖から明確に区別されるようになったと見倣せよう。また,小袖に対する関心も深まりをみせている。山科家では毎月の始めに当主や嫡男が将軍邸参賀を行っており,その時の服装についての記述が残る。『教言卿記』には教興の直垂についてが詳細に記されており(応永12年9月l日条他),直垂を季節に叶った意匠とすることに意を砕いていた様子が知られる。ところが,次代の『山科家礼記Jには言国の服装が記されているが,直垂に触れるところは殆どない。詳細が記されているのは小袖型服飾の種類と意匠であり(寛正4年4月1日条他),時宜に相応しい小袖型服飾を選ぶことが大きな課題となっていたことが知られる。これは,小袖型服飾に重要性や関心の比重が移ったことを物語っていよう。そして更に,15世紀後半になると,I襟祝」という小袖型服飾に関係する行事が行86
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