4.遺品の評価に関する問題一美的特質への探求われていたことが『山科家札記.1(文明日年10月13日条他)や『言国卿記.1(明応2年ともに行う祝儀である。他の服飾ではこのような祝儀は行われておらず,やはり小袖型服飾が一段高い重要性をもっに至ったことを示していよう。以上の諸点から,15世紀中頃は小袖型服飾が成熟度を高めて歴史の表舞台に立つようになる時期として捉えられる。振袖も一連の動向として確立したと考えられよう。視点を変えて,年齢規定という点から現存品を眺めてみよう。上杉神社所蔵の上杉謙信(1530-78)所用と伝える遺品を例に,粗雑ではあるが,作成した表lを基に,仮に謙信が大人期の料とした場合の適正を判定し評価を試みたい(注5)。胴服については,故実書で述べるところがないので,他3種の規定を敷術して当てはめることにする。なお,振袖はl領も含まれていない。〈小袖と袷;合計9領>I浅葱紬袷(裏・紅地練緯)Jのみ適合しない。〈雄子,4領〉全て適合する。〈胴服;13領>I白地五重裡牡丹唐草丈綾胴服(裏・紫地平絹)Jのみ適合する。〈陣羽織(胴服); 8領>I紙衣陣羽織(裏・萌黄地練緯)Jのみ適合する可能性がある。小袖と袷のうち唯一適合しない「浅葱紬袷jは形態上特異な点がある。残る8領は袖口の明きが20.0~22. 5cmであるのに対し,この袷は32.5cmと異例に広い。これは広袖に近い形態と言える。他の部位では法量に不審な点がないため,普通の小袖や袷とは用途を異にし,広袖に近いことから,胴服として使われたものと考えられる。翻って胴服では,適合するのが1,2領のみであった。中に法量上明らかに小さいものが含まれるとするのはかなり難しく,慎重な判断作業を要する(注6)。それ以前に,本質的に胴服には他の小袖型服飾とは異なる美的特質が求められていたとみられることを押さえておきたい。基本的なことではあるが,根拠をもって明示されたであろう。それが何故胴服という服飾にかの必然性は,恐らく,胴服の成立事情を繕くことによって解明されようが,これはまた別の機会に考察を加えたい。なお,謙信の遺品に限られない証左となるよう,表2として文献に見える衣材等に言及した胴服の記事を整理したので掲げておく。間4月29日条他)から知られる。その詳細は明確でないが,小袖や雄子を新調すると87 -
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