鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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③ 江戸初期の紙中極めについての考察研究者:ナショナル・ギャラリー研究員明治時代における中橋狩野家の家督であった狩野永恵(1814-91)は,明治23年(1890)の『国華.112号に「狩野家鑑定法ニ就テ」という著述を残している。これは江戸時代の狩野派における鑑定法,あるいは江戸社会の「鑑定文化」を垣間見るための重要な手掛りになる証言である(注1)。ここで永恵は鑑定書の諸形式を説明しながら,次のように述べる。「又紙中極メナルモノアリ其画極メテ巧妙ナルモ筆者ノ名印無キモノ歳月ヲ経ルコト久クシテ終ニ浬滅ニ帰センコトヲ恐レ紙中ニ某筆誰之レヲ極ム又誰筆トシテ鑑定者ノ印ヲ捺ス之レヲ紙中極メノ例トス」。この「紙中極メナルモノ」は日本の落款印章をもたない古い扉風絵形式の絵画作品に用いられる鑑定法として,現存する作品だけでも数十例が確認できる。本稿では,このような,作品の画面に直接鑑定を施すというやや特殊な鑑定法について考察を行い,これを通して江戸初期の画壇の状況を論じることを試みたい。鑑定という行為は,江戸時代以後における大名道具や絵画,書などの高級品の需要と鑑賞法を考える際には欠かせない要素であるにもかかわらず,今まで十分に研究されてきたとは言い難い(注2)。しかしこれは,近世社会における美術作品の価値観,身分制度,古画市場,歴史意識,絵師流派の自己主張がすべて交差する極めて重要な場であるだけに,より注目されてもよいと思われる。ここではまず,日本美術の鑑定が制度化する江戸初期までの歴史を概観しつつ,紙中極めについて考察したい。日本では美術作品の鑑定は,おおよそ室町時代の中ごろから始まると思われる。この時期,中国から美術品が多数輸入され,和漢の書画や道具類の鑑賞が,武家,公家の聞や禅林で盛んになる。その結果,個々の作品の時代や作者を推定し,その品等を定めるために鑑定が求められた。とくに茶の湯の成立と流行によって,唐物を中心とした茶道具や,また書画を含むさまざまな文物を鑑賞対象とする風潮がこれにいっそうの拍車をかけ,幕府御用をつとめた相阿弥など同朋衆や五山僧・茶人などがその任務にあたった(注3)。当時,鑑定は「目利き」といわれていたが,それが意味するところは必ずしも真偽を判定することではなく,作品に新しい解釈と意味を与えることであり,だれもが気づかなかった価値を見出すことであった。そのため鑑定家には経94 ユキオ・リピット(YukioLippit)

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