験や判断力が求められた。やがて偽作が多く現れるようになると,r目利き」に真偽判定の意味が加わり,鑑定を業とする専門家が現れる。桃山時代,万剣の鑑定には本阿弥家が,書跡では古筆家が登場する。また,大徳寺の高層江月宗玩(1574-1643)の墨跡の鑑定控え帖とでも呼ぶべき『墨跡之写』という日記が現存し,慶長期(1596-1615)から寛永期(1624-44)にかけての墨跡の鑑賞基準と贋作の流布の状況を知ることができる(注4)。当時の鑑定の証明には折紙が用いられ,r折紙付き」の称がおこった。万剣の名鑑や古筆の手鑑の集録もこのころから始まる。江戸時代に入ってもそのような鑑定方式は踏襲され,鑑定家の家系は世間的にも権威をもつようになる。絵画の鑑定も寛永年間には盛んに行われたと思われ,当時の資料では断片的に狩野興以,山雪,探幽,雲谷派の絵師の鑑定行為を確認することができる。鑑定の職は,主に幕府御用をつとめた狩野派の宗家や,少し時代が下ると,土佐派,住吉派の絵師,そして長崎の唐絵目利きなどがこれを世襲していく。また,狩野探幽(1602-74)や常信(1636-1713)が鑑定の際に作成した膨大な量のスケッチや,中橋狩野家や住吉家にのこる文書によって,江戸時代における絵画鑑定の制度化の様相も把握できる(注5)。鑑定家は作品の伝来や作者の究明,また価格について意見を求められたが,それらの鑑定結果を記したものが「極めjである。江戸初期の極めには幾つかの形式があるが,古筆家が出した「極札Jや,絵画の軸に多く用いられた外題,あるいは絵巻物の奥書きや箱書も極めの一種である。そして,やがて17世紀の中ごろになると,扉風絵の画面に直接極めを記す方式も登場してくる。これが本論でとり扱う「紙中極め」である。さて,文末の表は,筆者が確認できた紙中極め付きの現存する作品を33点ほどまとめたものである。以下,表に載る紙中極めの例の共通点に留意しながら考察を進めていく。この作品群に限っていえば,紙中極めは遅くとも狩野探幽が「探幽斎」という号を授けられた寛永12年(1635)以降に始まり,幕末明治まで続いたことがわかる。しかし,殆どの紙中極めはおおよそ17世紀後半に集中している点は意味深い。直接扉風の画面に紙中極めを書くという習慣は,歴史的事象としてはこの時代,すなわち寛永年間後期から元禄年間に限って盛んに行われていることを示唆している(注6)。また,鑑定の対象となった扉風絵のほとんどは15世紀から16世紀にわたって制作されて-95-
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