鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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いる。鑑定の仕事にあたった絵師は,現時点では11人,すなわち狩野探幽,安信,永納,洞春義信,永恵,土佐光起,光成,光芳,光貞,住吉広守,そして大倉好斎に限られる。さらにその11人のほとんどは,江戸狩野派,京狩野派,住吉派,あるいは土佐派の当時の家督であったことも見逃せない。そして,鑑定の対象になった絵師は15人,周丈,秋月,狩野元信,松栄,永徳,宗秀,山雪,益信,土佐光顕,広周,光信,光茂,光元,千代,光吉に限られる。狩野山雪,益信や同時代史料に実在の確認できない土佐光顕を除いて,すべては15から16世紀にかけて活躍した絵師で,周丈と秋月を除いてみな狩野派か土佐派の絵師である。この鑑定を行った絵師と鑑定された絵師との関係というのも興味深いが,それについては後述するとして,まず絵画鑑定形式の一種としての紙中極めと,扉風という絵画形式の関係について考えてみる必要がある。先述のように,17世紀に入ると絵画を鑑定することが多く求められるようになるが,小画面の作品の場合は,たいてい箱が伴うため,外題や極め札といった形式の鑑定書を箱の中に入れること,あるいは箱の蓋や蓋裏に直接書くことが可能で、あった。しかしその一方で扉風の場合は,通常箱に入れられることは多くなかったと思われる。すなわち,作品に付属する書類を整理するというその機能からして,その作品のー要素,その作品の延長部分と見なしうる「箱」という存在が決して多くはなかった(注7)。また,絵巻物のように末尾の奥書を記すことも不可能であった。障壁画の場合,通常,江戸初期までは絵師の落款印章がほどこされる習慣はなかったが,その建築物に伴う伝承によって内部にある障壁画の由来は伝えられていた。黒川道祐著『羅州府志j(1684)のような17世紀に刊行された地誌は,結果的にこのような伝承をより広く普及させた(注8)。扉風の鑑定に関しては,障壁画の場合のようにその「場」に伴う鑑定がなかったため,あるいは絵巻物の場合のように末尾や別の紙に鑑定を記すことができなかったため,ある意味では画面に直接鑑定を施す以外手段がなかったのではなかろうか。紙中極めのある扉風絵のなかには,障壁画から)弄風絵に改装された作品も多いが,改装された時点で鑑定が画面に記された理由は,この「場」を失ったことに深くかかわっていると思われる。すなわち,扉風形式は可動性があるために,改装された時点で直接画面上に鑑定を施す必要が生じたのではないかということである。「紙中極め」という言葉自体がいつごろから使われるようになったかは不明で、あるが,96

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