家の観点から考えると,この時代の特徴がよくつかめると思われる。先程述べたように,紙中極めは二つの部分から構成されている。ひとつは鑑定家自身の落款,いわゆる「代理落款」の部分であり,そしてもうひとつは作品の作者と鑑定された画家の名前である。これによって,鑑定をしているIAJという画家と,鑑定されているIBJという画家の聞に関係がいやおうなしに生じてくるわけであるが,この関係を画面上ではっきりと表わすことになる紙中極めには重要な意味が含まれていると考えられる。現存する紙中極め付きの扉風絵における画家Aと画家Bとの関係を調べていくと,それぞれの場合において,画家Aの「主張Jを,彼が下した「画家BJという鑑定結果から読み取ることができるのではないか。京狩野の狩野永納による紙中極めをこのようにして見てみると,現存する二つの例は両方とも永徳筆と鑑定されていることは興味深い。榊原悟氏が指摘するように,永徳は永納が最も敬意を払った画人でありそのことは永納が山雪の原稿をもとに著した『本朝画史』からだけではなく,彼が記した紙中極めからもうかがうことができる(注11)。こういった永徳に対する特別な意識は,おそらく永納が京狩野派の正統性を主張していることの表れとして考えられる。その一方で,江戸狩野の安信の紙中極めにも,こういった自己主張を読み取れるのではないだろうか。表の第12番に載る個人蔵の「伝永徳筆松鶴・董雁図扉風」に安信が記した,1祖父永徳法印真画也安信証罵」という鑑定の書き方は,彼がいかに江戸狩野派の正統性を主張していたかを示している(注12)。あたかも,安信と永納は,紙中極めを通して自らが主張する流派の正統性について公に議論を行っているかのようである。探幽の紙中極めには土佐派の絵師も含まれていることも興味深い。土佐派に対する探幽の意識を探るには,彼が絵巻物の奥書に施した鑑定や縮図等が有効な資料となる(注13)。これをみると,探幽は土佐光信だけではなく,土佐光茂の鑑定も行っていたことが分かる。探幽は,狩野派や漢画系の流派だけではなく,他の流派の絵師もよく鑑定の対象にしていた。これに対して,少し時代が下って土佐光起の晩年の頃になると,紙中極めに限っていえば,土佐派に同定される鑑定結果は土佐派の絵師によってしか出されなくなることが認められる。この現象は光起の主張ということだけではなし絵画鑑定の縄張りの成立として捉えることができるのではなかろうか。この土佐派の鑑定の縄張りには,物語絵等いわゆる「大和絵」的なものも多く入る。また,亀98
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