鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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注(1) 青木茂編『明治日本画資料』中央公論美術出版,1991年所収。永恵の著述の背景(2) ただし,例外的に鑑定に注目している論文もいくつかある。たとえば,熊倉功夫[茶の湯美学の試みJr新編名宝日本の美術17利休・織部・遠州、U,小学館,1991 (3) 相阿弥の鑑定活動や外題に関しては,島尾新『水墨画一能阿弥から狩野派へ.1r日(4) 竹内尚次『江月宗玩墨跡之寓禅林墨跡鑑定日録の研究』国書刊行会,1976年井若菜氏の指摘のように,元禄6年(1693)に出版された『本朝画史』は,著者狩野永納は土佐派に対して特異な扱い方をしているが,それに反発するように,光起や光成の時代から土佐派の絵師は自己主張を高めている(注14)。この現象における一つの表れとして,土佐派の紙中極めを見てみると,表の第27番の出光美術館所蔵「伝土佐千代筆源氏物語図扉風」の紙中極めは重要な意味をもっているといえる。この紙中極めにおいて,光成は土佐千代に対して「土佐光信女千代娘」という記し方をしている。ここでは土佐光成は土佐千代を,狩野永納の『本朝画史』では狩野元信の妻としているのに対し,意図的に土佐光信の娘として扱っている。そこには,千代を狩野派から土佐派へ引き戻そうとする意図を読み取れ,このことと土佐派の復興と軌をーにするものと考えられる。以上のように,絵画鑑定,特に紙中極めのありかたは,作品の様式の変遷や,各流派の自己主張,さらには日本絵画における歴史意識の成立と緊密に結びついているように思われる。ヴァルター・ベンヤミンが言うところの「作品のアフターライフ」は,紙中極めのような要素に如実にあらわれており,その作品の後世における解釈を示す重要なー要素として,作品から切り捨てるべきではなく,より多くの資料の収集と分析が求められるのではなかろうか。を知るためには,同書に所収されている佐藤道信[狩野派の終駕Jを参照された年,特に「箱書の歴史」と「由緒の文化jの章。また,近年では鑑定に注目する展覧会も行われている。毛利博物館『特別展由緒と伝来拝領・献上・極書J1994年,徳川美術館の特別展についての記事「江戸時代の鑑定家たちJr墨.1130 1998年,江戸東京博物館『狩野派の三百年.11998年などを参照。本の美術.1338,至文堂,1994年参照。しミ。99

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