鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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Fhd nu 3.広告業の発展(20世紀初頭■両大戦間期)な成果が期待できるからこそ注目されているのだ。ギュスターヴ・ジェフロワ(Gus-tave Geffroy : 1855-1926年)による夜間美術館の構想が,この転換のlつのきっかけになったと考えられる。ジェフロワは1895年に,夜11時まで開館している下町の夜間美術館を,装飾芸術品を手掛ける労働者のための趣味教育の場として活用する案を発表したが(注10),ロジェ・マルクスは1897年にこれに賛同している(注11)。世紀の転換期,ロジェ・マルクスは一般大衆を受け手とする“社会芸術(訂tsocial) " について,次第に考察を深めるようになった。彼は,ポスター,切手,硬貨といった日常的に広く流通する物品や,美術館,学校,都市の景観,祝祭などを通して芸術を普及させ,人々の美意識を高めることができると説く(注12)。彼のこの立場は,政治的には,1905年の政教分離を目前にして,公教育の世俗化/非キリスト教化を推進する急進共和派の政策に則るものであった(注13)。ロジェ・マルクスは1889年以降,ポスターこそが,同時代の最も優れた芸術的才能が開花する表現媒体であると主張してきた。論文「ポスター美術館」では,こうした判断に加えて,ポスター本来の広告機能が大衆教育に貢献すると論調を発展させた。“アフィショマニ"の時代,ポスターは様々な賞賛の的になったが,彼の批評は独自の装飾ー産業芸術観,あるいは社会芸術思想に深く根差しており,その理論的一貫性において他の追随を許さない。ポスター専用の美術館を準備する必要性を唱え,政府の迅速な取り組みを訴えるこの論文は,ロジェ・マルクスのポスター批評の到達点であったと理解できる。20世紀に入ると“アフィショマニ"の熱狂は途端に冷め,ポスター専門の画廊や雑誌は姿を消した。これと並行して,増え続ける広告掲示に対しては,法的規制措置を求める運動が盛んになっていった。1901年創設のフランス景観保護協会と1911年創設のパリ友の会は,急速な消費社会の発展を象徴するポスターの氾濫から,田舎の自然景観と都市の歴史建造物地区を守ることを訴えて,この運動の中心的役割を果たした。フランス景観保護協会の機関誌をたどるならば,協会の発足理由が,公共の利益を無視した産業優先主義と,それが引き起こす無分別な広告の掲示にあること,緊急の課題として,至るところで視界を遮る不愉快なポスターを取り除くこと,その手段として,刑罰を伴う景観保護法の制定を議会に要求することが宣言されている(注14)。

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