鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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ハU4.ポスター美術館の誕生(1978年)これらの圧力団体の働きかけは結局,壁面広告を制限する2つの法律の制定へと結び付いた。まず1910年4月20日法によって,教会や宮殿といった歴史記念物と,自然の美しさを保つ目的で特に指定された風致指定地区への広告掲示が禁止された。さらに1912年7月12日法によって,都市圏外の広告看板に対して,面積が大きくなるにつれて加算される累進の年次印紙税が課せられた。この反広告の逆風を受けて,それまで個別に活動していた広告の制作と実施に関わる様々な業種は,広告業全体の利益の拡大を目指して連帯した。とりわけ第I次大戦以降は,アメリカ資本の広告代理庖のヨーロッパ進出も,こうした広告業界の再編成に拍車を掛けた。まず1906年に,新聞・雑誌などの出版界に近く,広告欄の売買に携わる中開業者を代表する広告雇用者組合が結成された。続いて1913年に広告代理屈の経営者を中心にして,広告業を,広告戦略を助言するコンサルタント業として発展させようとする,広告技術者同業組合が結成された。1920年からは,ポスター図案家や印刷工を含めた,広告の制作に必要なあらゆる業種に門戸を聞いた。後者は,広告業が現代社会に不可欠な新たな職業分野であると主張し,自らを“エンジニア"に匹敵するlつの技術の専門家として位置付けた(注15)。さらに1935年に両組合が合同して誕生するフランス広告業者連盟は,広告への信頼を損なう恐れのある強引な宣伝行為を排除するため,1937年に『広告の公正な実践に関する規律』を採択し(注16),広告業務に自ら規制を課すまでになる。そこには,広告の発注者である広告主だけではなく,受容者である世論に対しても,広告が社会生活にとって有益であることを説くという意図が読み取れる。このように,20世紀初頭に勃興した壁面広告の規制運動は広告業者の側に危機意識を目覚めさせ,彼らに新たな職業集団としてのアイデンテイティーを確立することを迫った。その結果,逆説的に,広告業ならびに壁面広告の社会的認知が促されるようになったと言える。第2次大戦後,広告はポスターや新聞・雑誌に留まらず,映画,ラジオ,テレビへとその媒体を広げていく。しかしながらフランスでは,企業や公共団体の広告予算全体に占めるポスターの割合が,ほぼ安定して約8~10%を保ち続けるという現象が見られる。ベルギーを除いた旧西ヨーロッパ諸国で、は揃って3~5%であるのに比べて突出している(注17)。フランスでポスターが積極的に選ばれる理由として,独特の産

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