⑩ 与謝蕪村の宝暦期・明和期における扉風作品制作に関する調査研究1 ,扉風講1 ,扉風講時代の作品研究者:関西学院大学大学院文学研究科博士課程はじめに与謝蕪村(享和元一天明2年,1716-1783)がいわゆる「明清絵画」に強い影響を受けた新しい様式を用いて扉風作品を制作したのは,丹後から帰京してまもなくの(宝暦後期・明和初期)絵師としてはほとんど無名の時期であった。にも拘らず,数年のちの明和5年(1768)には蕪村が『平安人物誌』に絵師として掲載されるまでになっていることから,この時期の扉風作品の制作が蕪村にとって京都での絵師としての出発点であり,I絵師蕪村jの誕生に大きな役割を果たしたと考えられる。本研究では特に「受容者」という問題を取り上げ,初期!弄風作品の調査研究を進めた。蕪村が絵師として京都の町に浸透していった過程において,絵師と地域の受容者との密接な関係が「絵師蕪村」の誕生に重要な役割を果たしていると思われたからである。今回の調査研究においては,I扉風講」伝承と祇園祭の「扉風飾りjを関連付けて考察することによってこの時期の扉風作品の成立背景を推測し,蕪村が関わったと思われる放下鉾の下水引,山鉾町の商家「水口崖jの入札目録から,蕪村の新しい様式が京都・山鉾町に受容される過程を追うことができた。放下鉾の下水引については,現在まで「伝蕪村下絵jとして一部で紹介されてきたに過ぎず,今回文献資料等と併せて紹介することで関係者のさらなる研究につながればと考えている。ここでは,それぞれの調査の報告を行い,I絵師蕪村と地域の町衆との結びつき」を通して考察することで明らかになった蕪村の初期扉風作品の重要性について述べたい。蕪村の統本(ぬめ)扉風の制作を援助するために弟子たちが講を組織したという,いわゆる扉風講は,r園華j148号(明治35年(1902))に掲載された橋本正志編「藤原源作翁伝」に記載された扉風の制作に関する記述をもとに伝えられた(注1)。この藤原源作氏が生前購入し所蔵していた〈草庫三顧図・粛何追韓信図扉風}(現在,野村美術館蔵),<野馬図扉風}(現在,京都国立博物館蔵)の二作品は,ともに統(ぬめ)とよばれる光沢のある絹地(統本)に描かれた扉風作品であることから,扉風講の際に岡村知子
元のページ ../index.html#120