2,扉風講では,実際に講を組織し参加することにより,蕪村の絵画制作を援助したのは,どのような人々であったのだろうか。主に書簡資料からその様相を伺うことにしたい。メンバーの大半は蕪村の俳請を通じての人脈であり,蕪村のパトロン的存在であったと考えられる京都の糸物問屋,寺村百池も蕪村の扉風講に携わっていたことが寺村家に伝来する書簡から分かる。(注3)(筆者傍点)他にも俳名を丁加という古手屋も扉風講に加わっており(注4),俳詰を通じて蕪村の周囲にいた人々は彼の絵画の享受者としての役割も担うようになった(注5)。蕪村の扉風講の具体的な内容については不明であるが,呉春の「掛物講」の様子が『月渓句集.1(昭和5年)の月渓年譜に述べられていることは,高橋庄治氏も指摘している(注6)。「六月四日第二回掛物講を丹辰亭にて聞く。当日の披露幅は老松孔雀図(中略)これは川田田福に。花畿の扇面山水画二点,一つは星府,一つは回福の手に入る。」高橋氏は「これによると本畿・花識で本命の大作とその他の小品の落札者を決めたらしい。おそらく蕪村の扉風講も大作一点と扇面や俳画など小品数点が披露されたのではないだろうか。大作の扉風は本畿で扇面などの小品は花畿で落札者を決めたのだろう。jと述べている。丹後から帰京してまもないこの時期,絵師としてはそれほど知られていなかった蕪村が,先に述べたような大画面の作品を集中的に描くためには,周辺の人々の制作援助が不可欠で、あった。「扉風講」という伝承は,このような状況を明確に説明しているのだが,講という作品購入の在りかたは相互扶助的な意味合いが強く,作品の本当の理解に繋がっていたかという点で,現在の蕪村の研究においてそれほど注意が払われていないように思われる。しかし,扉風講時代の扉風作品に見られる中国故事の絵画や中国画の様式の山水画は,その後も蕪村自身によって多く制作されており,さらに呉春や景文といった四条派の画家たちにも受け継がれていったことを考えれば,蕪村が描いた新様式の絵画は,この講という組織をきっかけに絵師と地域の人々との聞でi(…)尚尚,今日は扉講,定めて御出席と存候。愚老も是非罷こし可申候。(…)J114
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