鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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根付いていくことになったと考えられる。!穿風という大型・高額の作品を共同で購入するという相互扶助的な作品購入の方法「扉風講」は,作品受容の一例として当時の京都における絵師と受容者の密接な関係を物語っており,絵師とパトロンたちの一つの在り方としてとらえることができるだろう。II,祇園祭蕪村の生きた時代,富裕階層の人々,いわゆる町衆は,京都の市民生活を華やかに彩る文化の担い手であった。この町衆文化の象徴とも言うべき祇園祭は,別名扉風祭とも呼ばれており,祭の宵山に各商家が居の聞に厚手風を飾り,道行く人々に見せる習慣,扉風飾りに由来している。本居宣長は,宝暦6年(1756),r在京日記』に厚手風が飾られる賑やかな宵山の様子を書きとめており,さらに,翌7年(1757)刊の『山鉾由来記』には,i祭礼の町々,前日より挑灯を懸敷ともし,幕をうち,金銀扉風,羅紗毛藍のたぐひ,他にをとらじと粧ひかざりて,客をまふく(中略)貴賎街に群をなせり」とある。このような宵山の記載は17世紀の丈献にはなく,宝暦年間になってから記録されていることから,宵山の)弄風飾りはこのころ成立したと考えられている(注7 )。また安永6年(1777)r太祇句選後編Jにも「まつりの日扉風合の判者かなjと扉風飾りの盛んなさまが詠われている。蕪村が,町衆たちに支えられ京都の町に受け入れられた絵師の一人であり,I弄風講がその出発点となっていたことは先にも述べた通りであるが,宵山の扉風飾りが成立したと考えられる宝暦年間と時期を同じくして蕪村の扉風講が組織されていることは,決して偶然ではないだろう。講を,しかも掛物ではなく扉風に対して組織したというのは,絵師蕪村と山鉾町の町衆の両者において,厚手風という絵画形式に関心が高まっていたことを示している。祇園祭において蕪村の時代には扉風が町衆の生活にはなくてはならない調度になっていたのである。蕪村がこのような扉風の役割にいち早く気づき,講を機会に)弄風の制作に集中したと考えるのは,穿ちすぎであろうか。もちろん,円山応挙,松村呉春など,当時の他の絵師たちも多くの扉風作品を残しており,砥園祭にも携わっていたであろう。しかし,蕪村の場合,I弄風講という伝承と祇園祭を併せて考察することで,講に際して絵師が扉風を制作し(扉風講),その作品を購入者が飾り(扉風飾り),鑑賞されることによって絵師の評判に結びつく,とい1 ,扉風飾り

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