う絵師と受容者のいわば循環的な関係が見出せるということは,蕪村の扉風作品がそれだけ地域の共同体における受容する者と制作する者との双方によって育まれたことを物語っていると思われる。2,放下鉾下水引〈琴棋書画図〉ここでもうひとつ,扉風講を経た蕪村が地域の代表的な画家として,そのハレの場,砥園祭に関わった例を挙げたい。祇園祭の鉾のひとつ,I放下鉾j所蔵の蕪村下絵と伝えられる下水引である。放下鉾は新町通錦小路と四条の間,小結棚町に所在し,鉾の名は天王座に放下僧の像を杷るのに由来している。この鉾に飾られる下水引は,琴棋書画に取材し,金地に山水楼閣,唐人物十数人を配した豪華な総刺繍で〔図6)(注8), 鉾の各面を飾るよう全部で四面あり,琴棋書画のうち,三面に「画J,I琴J,I棋と書J,そして一面に山水風景が表されている。水引に関する資料としては,放下鉾の寄進物に関する記録「延享元甲子歳六月祇園会十人行事児之覚井寄進物之覚J(京都市歴史資料館蔵)があり,I安永庚子年唐緯繍水引弁隅真紅総角八つjという記載が見られる(注9)。他に水引の寄進に関する記録がないこと,水引の新調は頻繁に行われることではなく昭和期に入って新しい水ヲ|が作成されるまでこの「琴棋書画」下水引が巡行に使用されていたこと,現存する「琴棋書画」下水引の刺繍が江戸中期から後期の特徴を備えていることから(注10),この水引が,記録にある安永9年に寄進された「唐棲繍水引jであると判断で、きる。下絵に関しては,I安政四年丁巳八月改鉾飾道具入日記J(京都市歴史資料館蔵)という安政期の記録に「道具箱七五番一大巻物ぬい水百|ノ下絵燕村筆壱巻jという記載があり,安政4年の段階では,蕪村の下絵が存在していたことが伺える。現在,下水引の下絵は失われているが,前述の寄進物の記録と併せて考えると,現存するド水引「琴棋書画」が「ぬい水51ノ下絵蕪村筆壱巻jに基づいて制作されたものであると判断できるだろう。以下,下水引の四面をそれぞれ「画jの面,I琴jの面,I書・棋jの面,I山水」の面と記し,簡単に述べたい。「画」の面では,頭巾を被り椅子に座って梅を描く唐人物が「画」を表し〔図7),他にも十人の人物が太湖石,松に止まる肌々鳥などと共に配される。「琴」の面は,琴を背負う童子によって表され,女性や杖をつく老師,童子など六人が配される。中央部には極彩色の豪華な東屋があり,榔子の木,太湖石,竹林
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