。。正11年,5月)である。まず,水口屋という商家について蕪村との関係を少し説明しておきたい。「水口崖」という名は,蕪村の書簡に見られ(注12),その内容から,蕪村が水口屋およびその近隣の近江屋で画に必要な絹地などを説えていたことが分かる。この蕪村の近江屋宛書簡は呉春の水口屋庄兵衛宛の別の書簡と同じ巻に仕立てられており,この水口屋宛の書簡が蕪村の年忌の招待状であったことから(注13),水口屋が蕪村と親しい間柄にあった商家であったことが伺える。水口屋は『新益京羽二重織留大全.1(宝暦4年版)に古手屋として記載されており,蕪村の四条烏丸,綾小路,仏光寺といずれの時期の住まいにも近い「五条通烏丸西へ入」で商売を営んでいた。『水口屋伴庄兵衛入札目録』は入札の行われた大正11年5月のもので,蕪村の作品が六点掲載されている〔表2)。この入札目録を取り上げるのは,先に述べた蕪村との交流関係から,水口屋が当時から蕪村の作品を所蔵していた可能性が高いと考えるからである。入札目録であるため,作品を詳述することは元より無理であるが,その概略は知られよう。前述の〈風雪三顧図〉を始め〔図4),{龍山落帽図}(図12){桃園結義図}(図13)など,蕪村が扉風講時代に描いた題材および様式に非常に近い作品が掲載されている。これらの作品では,写真資料で判断する限り,蕪村の目指したいわゆる「明清絵画らしさjが妓や樹木の表現などに認められ,安永期の年記から扉風講時代ののち十年以上を経た安永後期においても扉風講時代の様式の作品が制作され続けていたことが分かる。山鉾町の商家にこのような蕪村の作品が所蔵されていたことは,扉風講ののち,祇園祭を経て,同様式による蕪村の絵画が確実に京都のこの地域に根付いていたことを物語っている。まとめ以上,蕪村が宝暦・明和期にわたり,町人層と密接な関係のなかで,絵師としての「比きぬ地之裏打,薄墨にて染候と相見え申候。(中略)右之趣水口屋へもとくと被仰達可被下候。十二月二十四日近江屋五兵衛様蕪村J(筆者傍点)
元のページ ../index.html#127