コップズ,(中略)社曾董ニ在リテハ窄袴ノ紐マデモマタ衣服ノ尖マデモマタ硝子ノ鐘ニ残レル飴涯マデモ其ノ事相ヲ明カニ語レルガ如クニ描寓セザル可カラズ。J(注10)日常から題材を得ることや描写には細部まで現実感を持たせることが説かれている。この時期の作には,こうした当時の社会主義の影響とともに理論的な裏付けがあったことも考え合わせておきたい。また「春の歌JI罰JI徴税日」についてはすでに述べたように西洋画の影響が指摘されている。萎倦没後,夫人によって佐渡博物館に寄贈された妻倦の若い頃の写生帖(麦悟写生帖)にはこれら3作の制作過程を示す下絵や写生類が多数含まれており,作品の構想、や人物の写生,小学校のスケッチなどに混じって,西洋絵画の模写が残されている。例えば「歌う少女像J[図4J, I並ぶ婦人像J[図5Jなどは,前者は「春の集中的に西洋絵画の模写が残されている。人物像が殆どで,子供,老人,子供を抱く母などが眼につく。ホイッスラーの〈画家の母の肖像〉やマックス・クリンガーのエッチング〈春の始まり},テイツイアーノの〈マグダラのマリア〉など原作品を特定できるものはごくわずかで,その他は栖鳳の図書室にあった西欧美術書の図版を参考に模写したものと考えられる(注11)。そこで麦悟写生帖に残された西欧絵画の模写を手がかりに調査を進めた結果,原画となった西欧絵画が徐々に判明してきた。先に挙げた「歌う少女像J(図4JはArthurKampfの(TheTwo Sisters} [図6Jの模写であり,これはイギリスの美術月刊誌rTheStudioj 1904年(明治37)8月号の図版から取られている。もう一例の「並ぶ婦人像J[図5JはJohannesUferの{Seams悦sses}[図7Jであり,同じくWThe Studio jの1902年(明治35)6月号から模写したものである。原画と麦悟写生帖の図が同サイズであることから,薄様の半紙を上から当てて肥痩のない線で輪郭を写した透写法であることがわかる。コピーのない時代,参考資料の手元控えとして写し取って置く方法であっただろう。要倦の3作と関連する西洋絵画模写を書き出してみる。「春の歌」明治40年(1907)Phl. Morris, {Coming from Fair}, Royal Academy Pictures, 1900. Fred Morgan, {Hunt the slipper}, Royal Academy Pictures, 1903. Nicolaus Gysis, {Marchenerzahlrin}, * Die Kunst, Apr. 1902. Ralph Peacock, {Louisa, Sarah and Margaret Doughters of C. H. Paine, ESQ.}, 歌Jに,後者は「徴税日Jに参考にされたことは一目瞭然であろう。その他この時期トレース-126-
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