鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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127~ 「罰j明治41年(1908)The Studio, Jun. 1903. Arthur Kamph, {The Two Sist巴rs},The Studio, Aug.1904. C図6J J. Geffroy, {Procession de la Fete-Dieu a l'hopital de Beanne}, * Catalogue illustre du Salon, 1904. W. H. Y. Titcomb, {A Mariner' s Sunday School}, Royal Academy Pictures, 1899. 「徴税日」明治42年(1909)A. Legros, {Woman Praying}, The Studio, Jun.1903. A. Legros, {Ex Voto}, The Studio, Jun. 1903. Johannes Ufer, {Seamtresses}, The Studio, Jun. 1903. C図7J Whistler, {La Vieille叩xLoq即日},The Studio, Nov. 1903. Ralli, {Les d巴rniereslueurs}, * Catalogue illustre du Salon, 1904. *はサイズの違うもの。より大きな豪華版から模写していたことがわかる。この当時,イギリス美術への注目度が高かったようである。rThe Studio Jやロイヤル・アカデミーの画集,またフランス・サロンの画集から写し取った人物像や構図を,自分の絵画制作に巧みに利用している。それらは現在では全く名の知られていない作家のものが殆どだが,当時最新の西欧美術情報として受け取られていたはずで、ある。萎悟の場合,西欧の神話画や貴族の肖像画,身振りが誇張された構想画など,当時の日本では眼にしない服装や設定,内容を持った絵画よりも,子供の遊ぶ様子や新聞を読む老人,腰掛けて作業する婦人など日常生活の中の光景と違和感のないものが選択されている。そうしたものを選択して画面構成に利用することが画面に現実感をもたらす強力な要素となっている。けれども模写から作品が作られたのではなく,ある意図を以て選択が行われていたことは明らかである。萎悟の内に「春の歌JI罰JI徴税日」などの作品のイメージがまず存在し,それに必要な構成部分として西洋絵画の選択が行われていたと考えられる。自己のイメージに合う西洋絵画の模写部分を組み入れて作品の構図を決定し,その後に構図に沿う実際の人物写生を繰り返し行っている〔図8J。こうした制作過程から画面に情趣性と現実感があいまった要悟の独自性が引き出されていった,と考えられる。さらに麦悟写生帖の他の模写についても調査を進め,原画となった西欧絵画を一覧

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