鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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にしたのが〔表1Jである。すべての図を掲載できないのが残念であるが,現在までの調査では「春の歌Jr罰Jr徴税日」制作期に参考にされた雑誌は1899年から1904年までのものであったことがわかる。これは栖鳳が1900年のパリ万国博覧会視察以後もたらした,同時代の最新情報として認識されていたこと示している(注12)。また「水汲みの女JOeune Femrne Rev巴nantd巴Puiserde !'Eau a !a Rivi巴re}C図9Jや「ソファに眠る女J{Paysanne Assise, Dormant}などはミレーの素描集からの模写である。これは,旧栖鳳図書であった王舎城美術賓物館所蔵のミレーの素描集(注13)を調査して判明した。この本からの模写は,麦倦写生帖に4図が残されている〔表1参照〕。引き続いてrTheStudio.l rRoyal Academy Pictures.lなど1905年以降の西欧美術雑誌について調査を行ったが,萎倦の模写に該当する作品は見当たらなかった。つまり「春の歌Jr罰Jr徴税日」の構想、期には,1904年が西欧美術雑誌の最新情報であったと考えてよいことになる。1907年の例ではあるが,丸善書庖の『事燈』によればrRoyalAcademy Pictures 1907.1 は『英国王立美術院展覧会画帖Jとして同年8月に広告が出ている。要{喜の模写はその大きさから大判の保存版から取られていることが明らかで,萎倦の手元に届くのは翌年であったと考えてもおかしくはない。さらに図版を参考にして制作するには,構想、を練り,写生を重ねて作品を完成しなければならない。今回の調査から,出来した萎悟作品に同時代の西洋絵画の影響を認めるまでには少なくとも約2年の時差が存在した,と考えておきたい。明治30年頃よりロイヤル・アカデミーやパルピゾン派のミレーに注目して新しい表現を模索することは他の日本画家達も行っていたようである(注14)が,京都画壇では竹内栖鳳がパリ万博から帰国後,西欧美術に注目することが盛んになり,明治36年には「将来の日本画Jというテーマで西洋画の影響が盛んに論議されている(注15)。さらに,西欧絵画模写とほぼ同じと思われる時期に見出せる麦悟の浮世絵模写についても言及しておきたい。西欧の浮世絵研究書から模写されているからである。浮世絵模写の内,確認できるのはS巴idlitz著rGeschichite des Japanischen Farbenholzschnitts.l (1897年刊)(注16)から取られた8点のみであるが,作品サイズからこれらも透写法であることがわかる〔図10-1, 2 J 0 19世紀後半西欧美術に影響を与えた浮世絵についてヨーロッパで、は豪華な図版入りの研究書が盛んに作られている。萎悟は,逆輸入の形で入ってきた洋書から浮世絵の形態的面白さと風俗画の意味を学んだのではないだろうか。当陸風俗画を描くため参考にしたものと思われるが,ポーズの面白さ,128

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