注(1)上田文「土田萎悟初期の作品についてJ~美術史j151冊平成13年10月衣紋の流れなどに興味を引かれたと思われる。こうした浮世絵研究が明治44年制作の「遊女J(注17)に結実したと考えられる。「遊女」と思われる下絵が麦悟写生帖に残されている〔図11J。要悟が,明治42年に京都市立絵画専門学校別科に入学し近代欧州画壇の講義を受けたり,明治43年8月創刊の雑誌『白樺』からロダン,ゴーギャン,セザンヌなどの知識を得るなどして急速に近代美術の主流となっていく印象派,印象派以後の影響を受けて,I島の女JI海女jを発表するのは明治45年,大正元年である。印象派や印象派以後の作品が浮世絵の影響を受けたことから,西欧近代絵画は当時の日本画家には親近感のあるものであった。要悟がrGeschichite des Japanischen Farbenholzschnitts Jのような19世紀後半の西欧の浮世絵研究書から模写を行ったことは,明治42年以後流入してくる印象派や印象派以後の作品への理解を深めることになったのではないだろうか。「春の歌JI罰JI徴税日」の新しさは,社会面のような内容のある絵画を意図したことや当時最新の西欧美術情報を巧みに絵画制作に利用したことであった。今回の調査なく,自分の制作に利用できるモティーフの借用であったことが確認できた。そこに栖鳳塾で学んだ写生を繰り返し行うことで要悟の独自性を引き出すことに成功している。当時,西洋画を参考にすることは他の画家も様々な形で、行っていたと考えられるが,要悟の場合について具体的にその実際が判明したのではないだろうか。明治30年代後半,アカデミーを中心とする西欧美術雑誌やミレー画集,浮世絵研究書からのモティーフの借用というやや原初的とも言える方法が行われたのはほんの2,3年の短い時期であったが,次に到来する西欧近代芸術思潮を乗り越えるためには必要な準備期間であった,と言えるだろう。(2) 内山武夫「初期の麦悟についてJ~京都国立近代美術館年報」昭和43年度茂木博「明治末期■大正期の日本画と西洋美術一国画創作協会会員の制作に窺わ研究によってこれら3作の制作時に参考にされたのは~The Studio jや~Royal Academy Picturesjなどの西欧美術雑誌であり,その受容は西欧の流派や個人を選択するのでは129
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