鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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同日出新聞「将来の日本画j連載明治36年7月12日~9月22日(5) 天外「美術館の新重(五)Jr日出新聞』明治40年4月15日(6) 十五日在京,告天子「文部省美術展覧会を観るJ{上}r大阪朝日新聞』明治41年日召。lO月18日れる西洋美術の影響に関する試論Jr東京造形大学雑誌』平成元年3月など参(3) 土田要悟「藍原五三郎宛書簡」明治37年6月5日付(金井f恵子「土田麦悟の滞欧生活とそれ以後Jr比較文化J第5号195857頁より引用)(以下引用は原文のままとした。)(4) 西山翠陣「憶,土田要悟君」西村五雲「巨人地に墜つ」菊池契月「二つの面j上村松園「土田さんの塞術J(以上r:塔影』第12巻第7号昭和11年7月所収)(7)香山人「新古美術品展覧舎を観るJr美術新報』明治42年5月5日(8) 内山武夫「土田麦信清雅なる理想美の世界Jr土田麦悟展J図録京都国立近代美術館1997 (9) 中川重麗(1849-1917)は震城,四明とも号し,r京都美術協会雑誌』や『京都美術』に積極的にドイツ美学の紹介と解説を行う。明治42年より京都市立絵画専門学校講師。同中川重麗語纂「西洋書撃要論Jr京都美術協会雑誌』明治37年3月~6月叫このことはすでに内山武夫氏によって指摘されている。注(2)ω 竹内栖鳳の渡献は,明治33(1900)年8月■明治34年2月であった。(13) Leonce Benedit巴,Les dessins de J. F. Millet, Librairie Hachette, Paris, 1906.この本の見聞きにはITAKEUCHILIBRARY No. 94Jと記されている。(14) 1あの外園の美術雑誌,例へば悌園のサルーン又は英園のローヤルアカデミーなどを見て云々」とある。(1粉々録Jr日本美術J第16号明治33年2月)同蘇武緑郎訳『日本版霊史j(向陵社大正5年)制第五回文展に出品し落選した作品であるが,後に小野竹喬によって「裏箔の地に,下方に庭樹をのぞかし,二階の手すりに片腕をもたせかけ,黄朱の美しい衣装をまとった太夫であった。/その表現は歌麿の版画をみるやうな鉄線描で,その衣装の形態に相当のデフォルメが行われてゐた。顔は写楽の影響を受けて,少しとぼけた顔で,目など特にそのいちじるしさを増してゐたが,いま見ると,やはり徹-130-

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