鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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月12日までパリへ旅行し,帰国後フランスの新傾向であるオルフイスム,ピュリスム,ド運動の場に居合わせることとなった。ハンガリーのアヴァンギャルドの代表者として,ベルリンに移住した芸術家との連携,チューリッヒのダダ,オランダのデ・ステイル,パウハウスとの交流,国際雑誌の発行など,自国の閉塞的な環境では不可能であった活動が,現実のものとなった。もともとスロヴァキア出身のカシャークにとっては,大戦以前には公園の一部であった故郷が,戦後チェコスロヴァキアとして分離独立することは,皮肉なことであったかもしれない。プラハの芸術家との連携は,ベルリンに集まる芸術家たちほど強いものではなかったしチェコに対してはハンガリーという国を背負って,関わらざるを得なかったのだ。それにも関わらず,同じスラブ民族であるという意識が,チェコとの関係を容易にしていた。カシャークがチェコの新しい美術の動向に関心を示していたことは,機関誌rMAjの創刊号(1916年11月)の表紙に,ハンガリーの画家でもフランスやドイツでもなく,チェコ・キュピスムの画家ヴインツェンジ、ユ・ベネシュ(VincenBenes)のリノカットを掲載したことからうかがえる。それは,もともとスロヴァキア出身のクドラーク・ラヨシュを通じて,ベネシュ,エミール・フィラ,そしてアントニーン・プロハーズカによる立体・表現主義についての情報を得たことによる(注3)。さらに,1922年3月16日にプラハで「ダダjマチネーが企画(注4)され,妻ヨラーン,妹エルジとその夫パルタ,クドラーク・ラヨシユ,レイター・ローベルトによる,詩の朗読と演劇的なパフォーマンスが行われた。このマチネーについて,この後1927年にタイゲが記事を書いている(注5)0 1910年代から20年代のチェコ美術界の主流が,キュビスム,あるいは表現主義であった点,またタイゲは1922年6月18日から7ネオ・キュピスムについて紹介している(注6)ことからも,彼の関心がダダにあったとは考え難い。むしろ,チェコにダダの運動を広めたのは,カシャークの方であったといわれている(注7)。タイゲとカシャークとの接点は,互いの仕事を知らずに偶然にも同じコンセプトで制作していたことにある。2 カシャークのタイポグラフイもともと詩作を主たる表現手段としていたカシャークが,詩に絵画的な要素を取り入れたのは1921年以降である。文字や記号を素材に,文章よりも文字の大きさや書体,色彩を様々に変え,言葉を絵画空間へと転換させる試みを手掛けはじめた。それは音-136-

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