声学的な意味での読むための詩ではなく,視覚的な,いわば見るための詩であった。また,それらは雑誌MAの誌面へと印刷することをあらかじめ意図して制作された。つまり複製される絵画であり,新しいタイポグラフィのひとつの形式として提案していたものと考えられる。カシャークがはじめて出版物の装丁に着手するのは,1921年にウィーンで出版した作家自身の詩画集r1 MA KASSAK私の妻へj(ASSZONYOMNAK) [図1]においてである。この表紙では,円と第l巻を示す数字のしそしてMAとKASSAKの文字が,原始的だが,明快なサインを構成している。これ以後,彼は機関誌rMAjとMA出版として企画・編集した書物の表紙をデザインするようになる。1922年の雑誌rMAJに掲載した〈タイポグラフィ〉と題された作品〔図2Jは,断片的な言葉の帯がリズムを踏みながら,画面空間へと広がっている。そこでは言葉の意味を超えて,音そのものが視覚的に表されているのだ。さらに同年,モホイ二ナジと共同出版された『新しい芸術家の書』の表紙〔図3Jでは,本の内容を,一目で示すようなタイポグラフィで描かれている。それはカシャークの構成主義の理論に基づくシリーズ〈絵画建築>(注8)のヴァリエーションとして,表紙をデザインしたと考えられる。画面には建築的な幾何学的形態とIUJJ(新しいの意)の2つのアルファベットが,建築の構造的な一部分をなしている。さらにカシャークは同年,限定30部のオリジナル本として,紙にインクで描いたタイポグラフイをrMA絵画本j(MA Kep巴skonyv)として出版した。これは彼が,文字と絵画を融合し,その中間的な表現としてタイポグラフィを位置付けていたと考えられる。しかも一連のカシヤークによるタイポグラフィは,印刷所の既成の書体を用いないすべて手描きのオリジナルな書体であるという点でカレル・タイゲによるタイポグラフィとは異なる。つまり,カシャークにとって文字は絵画の重要なー要素であり,その意味で書物を美的な造形作品と捉えていたと言える。一方,チェコ・アヴァンギャルドのタイポグラフイの仕事は,グループ「デヴイエトスィルjによる出版物にあらわれている。まず,最初の声明ともいえる『革命的アンソロジー・デヴイエトスイルRevolucnisbomik DEVETSILjが1922年秋,作家ヤロスラフ・サイフェルト(JaroslavSeifert, 1901 3 Iデヴィエトスイル」とカレル・タイゲ-137-
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