鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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1986)と批評家カレル・タイゲによって出版された。この冊子にはデヴイエトスィルの活動メンバーとして,チェルニーク以下18名の署名が列記されている(注9)。さらにその内容はタイゲによる論文「プロレタリアートの新しい芸術j,I今日と明日の芸術」やホンズルによる「プロレタリアについての演劇j,イリヤ・エレンブルクの論文「芸術における革命と全革命」のチェコ語訳などが掲載されていることから,この頃のグループが社会主義的な傾向にあったことを示している。特に1920年代前半のデヴィエトスィルの傾向は,グループの発起人であり指導者であったタイゲの理論によるところが大きい。その理論を理解する上で重要なものとして,I我々の基礎と我々の道」がある。これは1924年l月に南部の都市ブルノで開催されたグループの展覧会に際して行った講演原稿をもとに,後の1927年に発表したものである。タイゲはこの論文の中で,以下のように新しい芸術を現代の産業社会との関係から論じている。「直線的特徴をもっ幾何学的な形に固まれた我々の現代の生活は,産業的な生活である。機械的な生活において,時代を反映した創造力が,生活と社会の新しい法則を生む。そうした創造力は,その時代の演劇的情熱からなる本来的な存在なのである。(中略)アカデミズム(崇高さの証明や美学的,芸術的,スノッブと共に,たとえ未来派が叫ばなければならなかったとしていと一一純粋で基本的な創造,構成主義,それは市民の幸福のための基礎であり,生き生きとした詩のための,知的で感情豊かな充足をすべての人々のために…j(注10)。このように論じたタイゲはまもなく,写真や映画という複製技術による映像表現に注目し,そしてフォトモンタージュとタイポグラフィによる印刷の新しいデザイン法を模索するようになった。つまり視覚芸術と文学との融合を試みる実験を展開した。タイゲはアポリネールの詩の方法に,Iポエテイズムj(注11)と構成主義の二つを融合させる試み(注12)を行い,彼はそれを「映像詩」と名づけた。それは,モダン絵画の手法であるコラージユやフォトモンタージュに詩を結合させ,叙情的な映像で国際的な言語を統一する方法であった。タイゲによれば,I詠うものだった詩は,今や読まれるのだ。朗唱はしだいに無意味になり,詩の表現機構は今や音声的ではなく,擬声語的でもなく,オプテイカルに,視覚的に,そしてタイポグラフィ的に定義される。人は詩をモダン絵画として読むのであり,モダン絵画を詩として読むj(注13)のである。このコンセプトは,まさにカ-138-

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