鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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ある点は共通しており,マルスの武具を取るプットの存在や,マルスを迎えるヴィーナスの姿勢など,その構成要素はよく類似している。しかしながら,2つの作品が生み出す全体的な雰囲気は大きく異なる。ルーペンスは,馬を駆ってヴィーナスのもとに駆けつけ,息、を切らせて彼女に身を投げかけたマルスの劇的な瞬間を迫力十分に表現している。武具のまま脆くマルスの不安定な姿勢や背後の馬の様子,そして画面中央にマルスとヴィーナスが大きく描かれていることも,作品の緊張感を高めている〔図5)。一方,プッサンの作品では,主人公の2人は画面左に寄せられ,右手に広がる牧歌的風景の静けさが画面を支配している〔図1)。マルスの寛いだ姿勢はルーペンスと対照的で,今まさに2人の逢瀬が始まろうとしているのか,それとも別れを惜しんでいるのかさえ判別できない(注19)。プッサンは,物語の特定の瞬間を劇的に表現することを避け,時間的展開について意図的に暖昧さを残すことで,時の流れが止まったかのような静かな風景の中に2人の恋人を描き出した。2つの作品の明白な類似は,プッサンが,["愛するヴィーナスのもとに到着し,好戦性を失うマルス」という着想をルーペンスから得た可能性を強く示唆するものではあるが,そうであったとしても,プッサンの制作意図はルーペンスとは大きく異なっていたと考えるべきであろう。従来,ルーペンスの作例とともに,この作品の視覚上の着想、源と目されてきたのは,カルターリ『古代の神々の像』の挿図〔図4J (注20)であり,それは,ヴィーナスの手を伸ばす身振りと,プットが存在する点でプッサンの作品と類似している。これと同種の古代の作例は,ダル・ポッツォの『紙の博物館』の素描や,ペリエの版画集等にも見い出せ(注21),プッサンがそれらを熟知していたことは間違いない。しかし,これらの作例は,マルスとヴィーナスが立ち姿で描かれている点でプッサンの作品とは大きく異なり,直接的な着想源とは考えにくい。ここで筆者は,より可能性の高い着想源として,アドニスの古代石棺浮彫を指摘したい(注22)。アドニスの石棺はルネサンス期以降多くの作例が知られ,典型的には3つの場面,すなわち,ヴィーナスの忠告を聞かず狩に出発するアドニス,猪に襲われるアドニス,ヴィーナスに見守られて息絶えんとするアドニスの3場面で構成される。『紙の博物館Jに素描が残るローマのロスピリオシ宮の石棺は,左から右に向けてこの2 古代の作例に見るプッサンの視覚上の着想源-149-

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