50年の歩み』福音館書庖2002年(非売)参照。)『こどものとも』創刊時の編集者松居直は1926年京都市生まれ。同志社大学法学部政治学科を卒業し,1951年,福音館書庖に入社した。松居については二つの重要なことがあるように思われる。一つは戦後の新しい価値を創造しようとする意志と,もう一つは絵画への関心である。インタピ、ユーで松居は「僕は,さっきも民主主義っていうことをちょっと言いましたけど,戦後最大のテーマは,生きるってどういうこと,っていうことだ、ったんです。戦中派ですから,死ぬはず、だ、ったんですよ。20代でみな死ぬわけですから。それが,戦争が終わった時に,僕はちっとも喜びはなかったけれども,しばらくした時にね,死ななくてもよくなったんだ、ってことに気がついたんですよ。ところが18年間ね,死ぬために教育されてきたわけですよO死ぬっていうことは毎日毎日考えてるんだけど,生きるなんていうことは言われたことがない,教えられたことがない。僕の戦後はそこからです。生きなきゃいけない,死なないんですから生きなきゃいけない,それがずうっと今まで続いているんですよ。死ななくてもよくなったんだから,生きなきゃいけないって。この出版の仕事も,根本的にはそういうことかな,と思います,今振り返ってみますと。子どもも一緒に生きるわけですから,子どもたちにはそういったことを伝えたい,もう二度と戦争はかなわん,という思いがあります。」と語った。前例のない月刊の創作絵本『こどものとも』は確かに商業的な狙いからの新機軸であったが,当初から商業的に成功を収めたわけではなく,一時は休刊も検討された。それにもかかわらず出版が継続されたのは,このような松居や松居とともに仕事をした人々の意志のたまものであろう。松居の絵画への関心は,父に連れられて京都美術館(現・京都市美術館)の帝展を見た年少の頃に遡る。洋画より日本画に惹かれ,1936年の文展招待展に出品された上村松園の〈序の舞〉など記'憶に残っていると言う。また,叔父が洋画家の須田国太郎で,ときどきアトリエにも出入りして,話を聞くことがあった。さらに学生時代から戦後にかけて,団体展にも通っている。新制作,独立,二科,行動美術などをよく見に行ったと言う。特に新制作協会については「堀(文子)先生以外でも新制作の方とは,割合お付き合いがあったんです。時々晩にお会いしたり,展覧会の後,ぞろぞろとついて行ったり,加山又造さんとか,稗田一穂さんとかともご一緒して。」と言う。こういった経験が,原画を依頼する際に,日本画や洋画への関心と判断に基づいて,162
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