つ。3. rこどものとも』のあゆみ在来の童画家の枠組みにとらわれずに,いわば白紙から考えることができたのであろ教育参考書への依存度を薄め,経営の安定を図るために創刊した月刊雑誌『母の友』はやがて追随誌との競合に見舞われたため,新たに1956年に『こどものとも』が創刊された。それは1冊1話の月刊絵本雑誌という前例のない形態によるものであった。その基本的な方針は,1冊l話であることに加え,名作のダイジ、ェストによらず,できるだけ創作の物語によること,絵については戦前からの童画家ではなく,絵本とは従来接点のなかったような画家を起用することであった。とはいっても初期の『こどものとも』には「セロひきのゴーシュJ(第2号,原作宮沢賢治,絵茂田井武)のような例外もあった。宮沢の原作をダイジェストしたことについて松居は「大変な矛盾と間違いJ(注松居直『絵本とは何か』日本エディタースクール1973年p.243) と書いているが,後に茂田井の未発表の絵も加えてダイジェストでない単行本を刊行した。なお,しばしば童画家と呼ばれることのある茂田井や初山滋(第9号「マッチうりのしょうじょJ,第88号「たなばたJ)を起用したことについては,I茂田井武先生と初山滋先生は別です。茂田井先生はわたくしは子どもの時から好きでしたし,宮沢賢治は茂田井先生以外に考えられないと思っていましたから。jと語った。戦前にいわゆる童画も描いていた村山知義の起用(第32号「おなかのかわJ,第43号「おはがきついたJ,第109号「しんせつなともだちJ)も含めて,松居は童画家を一律に排除したのではなく,その類型化された表現を排除したのである。太田大八によると「だいたい,その頃,普通の出版社は,社内にデザイナーみたいな人がいて,ラフの画面を作ってくるわけね。狸はここに描きなさい,とか。JIだから,いわゆる職人としての指導をするのが出版社であるということだ、ったのね。Jということもあったようだ。これに対して松居が取った態度は,絵本の絵に美術家としての創造的個性を求めたものだといえる。『こどものとも』の体裁は,B 5判で,創刊当初は表紙と裏表紙も含めて16ページだった。したがって一つの見聞きにl枚の原画を描き,表紙と裏表紙を併せて1枚の原画を描いた場合には,1冊の絵本に8枚の原画が描かれた。しかし物語を十分に展開するにはページ数が足りず,翌年の第13号から20ページとなった。さらに第73号から163
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