しミ。鋭の若手洋画家によって1936年に「新制作派協会Jとして発足したが,別に1948年に創立された日本画の創造美術協会と1951年に合同し,I新制作協会」となっていた。この創造美術協会を母体とする新制作協会日本画部(1974年には新制作協会と分離して創画会となる)のメンバーや出品者を上記から拾うと,堀文子,朝倉摂,竹山博,秋野不矩,稗田一穂がおり,日本画以外では荻太郎,太田忠,小野かおる,佐藤忠良があって,新制作協会の関係者は合計9人である。この他,山中春雄,永井保,三芳悌吉は行動美術,大沢昌助は二科会,寺島龍一は日展の画家である。ほかにも日本美術会や前衛美術会に加わった丸木俊(赤松俊子)や青年美術家連合などに参加した池田龍雄など,この時期の原画制作者にはもともとタブローの画家として活躍した者が多いっぽうで,最初期には茂田井武や初山滋のような戦前から活躍した絵本画家が起用された反面,堀内誠ーや瀬川康男のようにその後の『こどものともJの中核的な存在となる者たちが絵本原画の仕事に従事し始めている。1960年代になって,絵本を中心に仕事をする人々が顕著になる。Irこどものともjの中でも,積極的な意味での絵本画家ということはいつ頃からになりますか。」と尋ねたのに対して松居は「赤羽末吉さんははじめからそうですね。『こどものとも』では,「かさじぞう」が最初です。何人かそういう,ずうっと絵本でやってこられた方が出てこられましたね。中谷千代子さんもそうだと思います。中谷さん,それまでは芸大で油絵を勉強されて,子どもの絵の指導をしたり,公募展に出してはいらしたんですけどね。でも,絵本を描きはじめてからはもう,こんな面白いものはない,というような感じでした。」と答えた。奇しくも『かさじぞうj(第58号)は1961年の最初の号である。この1960年代,松居が編集した149号までに新たに『こどものともJに携わったのは,登場順に次の27人である。赤羽末吉,串田孫一,熊谷元一,三好碩也,宮脇公実,土方久功,横内裏,クロード・岡本,得白書之,富山妙子,田島征三,吉井忠,太田直美,庄野英二,薮内正幸,ましませっこ,吉本隆子,野崎貢,なかのひろたか,梶山俊夫,丸木位里,羽根節子,得田之久,秋野亥左牟,安野光雅,片山健,おおむらゆりこ(山脇百合子)美術文化協会の会員であった吉井忠や丸木位里のように,戦前から美術運動に加わった画家もいるが,全体としてタブロ一系の画家が滅り,絵本の原画制作者として知られる顔ぶれが増えているのがこの時期の特徴である。既存の画家から絵本原画の制-165-
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