鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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FO 作者を見出す作業から,絵本の仕事を中心とする画家の開拓へと移行していったのである。戦前の童画家と連続性を持たない新しい絵本原画制作者が登場してくる背景には,デザイナー,漫画家,イラストレーターなど,幅広い意味での美術の仕事が社会的にも重要性を増したこともあろう。irこどものとも』を出しはじめた頃,ちょうどコマーシャル・アートが盛んになってきたんです。創刊の頃から少しずつそういう雰囲気があって,日宣美(日本宣伝美術会)とかも盛り上がってましたし,こういう表現のジャンルがあるのか,というふうに注目してました。Jというように,松居も堀内誠ーなどとの交流から,新しい領域から新たな絵本原画の制作者を見出していったのである。5. rこどものとも』と1950年代小野かおるはこう言った。「みんな,絵本ってすごく簡単だ、って思ってるのね。絵本を見て絵本を真似しようと思うみたいで,こういう絵本を描きたいって。そういう時,わたくしは,それなら美術館や博物館に行きなさいって言ってます。古いもので、残ってるものはいいものじゃないですか。j東京造形大学で教えた小野は,絵本についての講義も行なっており,ここで「みんなjというのは学生のことだが,絵本のモデルを絵本に求めるというのは,いつでもありがちなようだ。しかし新しいタイプの絵本を生み出そうとした松居は,海外の絵本も研究したとはいえ(このことは今後の研究課題でもある),ほとんど手探りで絵本編集を,しかも月に1冊のベースで行なった。「編集者になった時に,最初にお願いしたのが堀先生だ、ったんですが,わたくしの中に何人か好きな絵描きさん,こういう人に絵本を描いてもらったら面白いだろなあ,というリストのようなものがありました。最初の頃は新制作の方が多かったと思います。まず,創刊号は堀先生。それは,当時の日本の童画の世界とは別の,わたくしの判断でやったんですね。Jと言うように,既存の童画家のリストを参照するのではなく,松居は自身の美術への関心に基づいて,自前のリストを胸裏に抱いて,日本画や洋画といった分野ですでに一定の発表活動を行っていた画家たちの中に乗り込んで、いったわけだが,乗り込まれた画家たちにはどう映ったか。絵本の歴史の側からではなく,画家たちの側から見てどうであったか。松居によると「堀先生なんかはね,ものすごく積極的に取り組んでくださったんです。というのは,展覧会に絵を出しても見てくれる人は限りがある。でも絵本だと日

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