鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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本中のたくさんの人が見てくれるから,これはもう是非やりたいって。まあ,戦後のひとつの考え方ですよね,民主主義的な。堀先生は,はっきりそれはおっしゃいました。絵本だ、ったら何万っていう人が見てくれるし,子どもも見てくれるし,私はそういう仕事がしたいと思いますっていうふうに。」ということであるが,堀自身も「思想があって,絵がかけて,お金になるならこんなにいいことはないじゃないjと言って仲間にも勧めたと言う。原画が画家の副業的な側面もあったとはいえ,当時は買い取り制で金額も決して高額というわけではなかったから,画家としてはやはり表現の場として真剣に取り組んだのである。「アルバイトだったらね,Iまごはいぬをよんできました」って言うんだったらここに孫と犬だけ描けば絵にはなる。次だ、ってねずみと猫だけ描きゃいいわけです。」と言う佐藤忠良は,Iとにかく,今でも記憶にあるのは,(松居を)変わった人だな,と思ったこと。今までの,いわゆる童画風な絵でなくて,写実風な絵で絵本をひとつ作ってみたいから頼むって言われたことだけは覚えているんです。Jとも言う。今回のインタビューで認識を新たにしたのは山中春雄という画家の存在である。長新太は「山中春雄さんっていうのは,当時,ビュッフェの影響をかなり受けてて,ああいう感じの絵を描いてらして,そういう方が子どもの絵本を描くっていうのは,考えられないわけ。それから朝倉摂さんなんかも初めの方に描いてた。そういう絵本っていうのははじめてだったので,もう驚いたんですね。」と言った。松居によると長はIrこどものともJで山中春雄っていう人が描いてますね,あの人が描けるんだ、ったら僕もやれるかもしれない,とおっしゃったんですよ。」と言っている。あるいは,Iアニメーション三人の会,柳原良平と久里洋二と真鍋博をプロモートしてた会社です。そこでアンクル・トリスなんかを作ってたんですよ。…辞めたとき退職金l万円くれて,それで、『こどものとも』のパックナンバーを全部買ったんですよ。それではじめて福音館の絵本を知ったわけです。」と語ったなかのひろたかは,Iその時印象に残った作品はjという問いに,山中春雄の「てんぐのこまJ(第27号)を挙げ,「あれは好きだ、ったねー,僕はあの絵はものすごい好きだ、った。Jと答えている。その後なかのは「ちょうちんあんこう」を福音館書庖に持ち込んで採用された。すなわちfこどものとも』が一定の刊行実績をあげることによって,それを見る者たちの中に新しい絵本制作のイメージを育み,新しいタイプの絵本の可能性の拡大再生産を促したと言えるだろう。-167-

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