ろくろひ以下,漢碑における三角首と半円首の形式の起源について,また「穿j,I量」およびその他の装飾意匠が何を象徴しているのかについて,従来説を紹介しながら検討を加えてみたい。文献における「碑」字の初出は『儀礼』である。同書巻八鴨礼の中の廟に陳列するものを記した中に,I妊一牢鼎九は西階の前に設け,陪鼎は内廉に当て,東面北上させる。上は碑に当たるj,また「睡臨(しおから)百審,碑を爽み,十以て列を為す」とある。「上は碑に当たるjという部分に,後漢の鄭玄は「宮に必ず碑有り。所謂,日の景(影)を識り,陰陽を引くものなり」と注していて,後漢時代に廟碑を日の影を識るものとする解釈があったことを知る(注4)。しかし従来碑の起源については,もっぱら『札記J巻二四祭義の廟碑と,巻二二喪大記の葬碑の記述に求められている。すなわち祭義にI(宗廟の)祭の日に,君は牲を牽き,穆は君に答へ,卿・大夫は序もて従う。既に廟の門に入り,(牲を)碑に麗ぐj,喪大記に「凡そ封には綜(棺のひき綱)を用い,碑を去りて負い引く」とあるのがそうで,前者は牲を繋いだ廟碑,後者は棺を墓穴に下ろすための葬碑について記している。前者の牲を繋いだ廟碑については,唐・孔穎達の疏『礼記正義』に,I碑に麗くつことについて,I説の甘露元年(256)に没した王粛の説に,<絹I(ひき綱)を以て碑の中に貫く〉という」としており,漢碑にみられる穿を,牲を繋ぐための孔であると解釈していることが窺える。後者の棺を下ろすための葬碑については,先にみた『札記』喪大記に鄭玄が「碑を墳の前後に樹て,緋(ひき綱)を碑の聞の鹿慮に繰らせ,棺を執きて之れを下ろす。此の時,棺が窒(墓穴)に下りるに,執く者はみな繍を繋いで繰らせ,負いヲ|くを要め,(終われば)之れを箭べ縦して,失脱に備うなり」と注しており,また『礼記j巻十檀弓下に記される「豊碑」の鄭玄の注の中に,I榔の前後四角に於いて之れ(豊碑)を樹て,中を穿ちて,聞に於いて鹿屋を為し,棺を下ろすに梓(ひき綱)を以て繰らす」とあることから,唐・封演の『封氏見聞記』では「天子諸侯の葬時に棺を下ろす柱には,その上に孔あり,以て梓索を貫き,棺を懸けて下ろし,その安審を取るなり。(中略)古碑の上に往々にして孔有るは,是れ梓索を貫くの像なり」と,漢碑に見られる「穿」を,棺を下ろす際の聴櫨仕掛けのために穿たれた孔である,と解釈している。さらに,宋・洪這は『隷続J巻七,祝睦領条で「碑の穿有るは,廟に在りては則ち以て牲を繋ぎ,穴に在りては則ち以て枢を下ろす。漢碑蓋し多く之れ有り」と記して171-
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