おり,廟碑と葬碑とで「穿jの用途が異なると語られている。半円首にみられる装飾を「量」とした初出文献ははっきりしないが,r隷続』ではすでにこれを「量」と呼んでいる。また,i青・畢涜は『山左金石志』巻八泰山都尉孔宙碑条において,I此の数義に拠りて知るに,古人の墓碑に穿有るは,以て鹿j量を貫き,其れ梓を鹿慮に緯らし,横にして斜めに碑頭を過ぐる。碑頭は此れ量を為し,以て梓を限る。之れをして滑らかにして,且つ外脱に致らんとす」として,I量」の起源を葬碑に求めている。まとめると,I穿jは廟碑では牲を繋ぐための孔,葬碑では棺を下ろす際に聴轄を設置するために翫め込む孔,そして「量jは聴瞳に巻いた縄がはずれないようにするために葬碑に施された溝,と解されていたことが分かる。関野貞氏もこの解釈に則った上で,さらに,量のない三角首碑は聴轄を使う必要のない廟碑を起源とし,これを第一の系統,半円首碑は葬碑を起源とし,これを第二の系統としている(注5)。これに対して異論がいくつかあるにもかかわらず,現在もなおこの廟碑と葬碑の三系統が,石碑の形式の起源として語られている。しかしながら,三角首碑と半円首碑そして直方体の漢碑にも普遍的に「穿」がみられることに対して,このように「穿」の役割を二系統にはっきりと区別できるとは考え難い。そして「量jについて確認しておくと,正面からの観察あるいは拓本等によると「量」は確かに溝状に見えるが,側面からの観察の結果,I量jの形状は溝状ではなく,数条の円筒を並べたような形であることが分かる。またその端には龍の頭が施されているものがあることを考慮すると,I量jは従来考えられてきたように,棺を下ろす時に縄がはずれないようにするための溝とは考えられないことは明らかであろう。では,I量」は何を象徴しているのであろうか。注目すべきは塚本靖氏が「虹の形jとしたことである(注6)。塚本氏は「鄭季宣碑」の龍頭,および武梁嗣石室画像の中に,虹をあらわすのに双頭龍が刻されていることを挙げ,虹と龍とは畢寛同じものになるとし,陰陽説に基づきながら龍も虹も上方の装飾として極めて自然なことであるとした。『准南子』天文訓などに記されるように漢代に流行した「天円地方Jの概念からいえば半円首は天をあらわしていると考えるのは無理のない解釈で,そこに虹をあらわすのも素直に領ける。そもそも「量」は太陽や月の周囲にあらわれる光の輸のことをいうが,r周礼』巻三172
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