ただし,市村氏も挙げているように,北貌・雇~道元『水経注』巻二三陰溝水に「闘春官宗伯の「眠鰻掌十輝之謹」の注に「鄭司農云う,輝(量)は日光の黒(気)を謂うなり」といい,十種類の爆のうち「隣Jというのが虹であると述べられている。すなわち最初に半円首上の装飾を「量」と称した人も,それを太陽の「気」と理解したからに違いない。問題は,漢碑に何故「気」をあらわすのか,である。ところで市村理次郎氏は,三角首碑は上半分を尖らした「政圭J,半円首碑は上部が円い「碗圭」の形に基づいたものであろうと推測した(注7)。そして漢碑の「穿」は,政圭や碗圭に穿たれた紐を貫通させる孔を模したもので「量」は紐の畳んで垂れかかった形状を模したものだと解した。圭とは中国時代に祭記用に用いたという瑞玉のことである。しかし,圭には基本的に孔は空いておらず,孔が空いているものも圭の尖った方あるいは丸い方ではなく,底部近くに穿たれている。したがって,漢碑の「穿」との関係性は稀薄といわざるを得ない。また市村氏の「量」の解釈では,三角首に「量」があらわされていないことが説明できない。の北に圭碑有り。題して云うに漢故中常侍長楽太僕特進費亭侯曹君之碑。延裏三年に立つ」とあり,延裏3年(160)に立てられた漢碑が「圭碑jと記述されていることは,漢碑と圭との聞に何らかの関係があったことを連想させる(注8)。ちなみに『水経注jには巻二一汝水にも「廟前に圭碑あり。文字素砕す」とあるが,これらの「圭碑」の形状についてはよく分からない。また,後漢最初の皇帝が立てたという光武碑について,r太平責宇記J巻六十に引く『水経注』に,I漢帝北巡し高邑に至り,亦た光武此に子いて即位す。石壇有り。壇に珪頭碑有り」とあり,ここに「珪頭碑」という語が見える。これは碑の頭が圭形を象っている,という意味であろうか。圭の形については,r説文』に,I理,上を刻するを圭と為し,半圭を王章と為す」とあることから,圭は上部の尖った形すなわち漢碑でいう三角首碑のような形であることがわかる。しかし,r説文』の土部には「圭,瑞玉也。上園下方」とあり,こちらは半円首碑のような上部が円い形を言っている。とすると「圭頭碑」とは,三角首碑と半円首碑のどちらの形容としても当てはまることになる(注9)。さらに,圭と漢碑の関係において注目すべきは,1,共這『隷釈』巻六に載せる平都相蒋君碑の碑文に,I遺訓を追煩し,之を玄珪に刊す。其の辞に日く」とみえることである。この部分は,例えば曹全碑であれば「乃ち共に石に刊して功を紀す。其の辞に日くjとあるのが普通で,すなわちここでは「玄珪」は「石jつまり石碑のことを指し173
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