鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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注(1 ) 三角首のこの形式を,関野貞は「圭首」としている。しかし後にも述べるように,らわしていることの証となろう。鮮子瑛碑には龍の他に虎と鳳風を線刻しており,陰陽を表現していると考えられ(注18),陰陽の始めとされる圭(注19)の意味に相応しよう。張遷碑の場合はやや特殊で,碑の周囲には龍や鳥が立体的に彫出されており,頂部は破損していて不詳だが,碑側上部において龍が上方に向かつて昇り,鳥の尾を噛んでいるようである。碑側下部では二龍が縄状に絡み合い,一方は下方へ,一方は上方へ向かう。霊の降下というよりも,本体の半円首碑の周りにあって,それの発する「気jをあらわしたものと捉えられよう。孔君墓砲の碑陽周縁にあらわされる波文も,1気」をあらわす雲気文と考えられるであろう。梧台里石社碑額〔図12Jの装飾については,林巳奈夫氏が天上の神を宿らせる「杜の主」に関連するものと考察している(注20)。また乙瑛碑の碑側にあらわされた浮彫であるが〔図2J,類似の図様を画像石にみることができる〔図20J。この西王母の肩から立ち上っているのが,西王母の「気Jをあらわしていると考えられるならば(注21),乙瑛碑にも「気」があらわされていることになる。最後に,碑肢については,亀肢がすでに後漢時代から存在していることは注目されるが,ここではそれらが天円地方を象徴する碑を支える役目をもつことを示唆するに止めたい。以上,漢碑の形式は,霊を愚らしめる機能をもっ圭に由来し,漢碑に施された装飾意匠は霊を降ろすという意味,あるいは「気」を表現したものと私考する。惰代以降の碑には穿は消え量も璃首に変化し,i莫碑の象徴する意味は次第に希薄になっていくが,漢碑が時代を経て人々の前に存在していることにより,その基本的な様式は「漢文化の象徴」として,石碑だけでなく造像記や碑像にも受け継がれていくことになるのである。圭には上端が三角に尖っているものの他に円いものもあり,また宋・洪這『隷続』では「圭首jとは上部が円くなっている題額部分を指していることから,この三角形の碑首を「圭首」と呼称するのは適当ではない。(2)量は三条に限らない。『隷続』巻五には五条の「義井碑jや,左右対称に二重の孤-176-

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