つ。を描く「婁先生碑」が載せられている。(3) 洞廟の前に立てられるも,その内容が徳政碑や公文書に相当する碑もある。(表)を参照。(4)福山敏男氏は「碑を日の景を識るものとする解釈は,周札と儀礼を習合して,鄭玄が考え出し,つけ加えた新解釈であるということになる。そのままには受け入れにくい」という。(1礼経に見える碑と秦の刻石Jr中国建築と金石文の研究』中央公論美術出版,1983年)(5) 関野貞『支那碑碕形式の変遷』座右宝刊行会,1935年(6)塚本靖「碑の装飾Jr考古学雑誌j5 -12, 1915年8月(7) 市村噴次郎「漢碑の様式に就きてJr東洋学報j5 -2, 1925年10月(8) r隷続』巻五にはま官・圭・壁・諒・埠・瑛の六玉を碑陰にあらわした柳敏碑,六玉碑,単碑六玉碑,あるいは噴を除いた五玉を碑陰にあらわした益川太守碑の図が載せられているが,これも碑と瑞玉との関わりを物語るものと考えられるであろ(9) 圭の形について,林巳奈夫氏も「圭とは,先が尖る尖らないにかかはらず,長軸を中心に左右対象な形の板状の玉といふことになる」という。(r中国古玉の研究14頁,吉川弘文館,1991年)帥これら盟書の内容は諸侯の聞で交わされた一種の誓約書で,材質は玉と石があり,三角首の形の他,半円形や円形のものもある。(叫林巳奈夫『中国古玉の研究j119-126頁。また様々な圭に関して,同氏の「圭について(上)(下)J (r泉屋博古館紀要j12・13,1996・1997年)に詳しく考証されている。わい)を降し,万寿無量(彊),子子孫孫,永永番昌(蕃昌)せん」とある。霊宮とは,西撮華山廟碑に「集霊宮」とあるように,白石山の神霊の宿る宮のことであろうが,それを興すことによって,人々に嘉き幸いを降して,子々孫々繁栄すると考えていることがわかる。同功績を記した徳政碑も墓碑と同様な意味を持っていたに違いないであろう。凶竹嶋秀聡氏は,1穿jを壁の象徴と考え,i莫碑に昇仙思想があらわされていると解釈した(1漢碑装飾考Jr全国大学書道学会研究集録・昭和六三年度j1989年)。興177-ω 白石神君碑「遂に霊宮を興すこと,山の陽に子いです。(中略)神は嘉き祉(さい
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