鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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べてがパリ万博向けであるとはいえないが,万博会場写真(注2)や『美術画報第二臨時増刊巴里万国博覧会出品製作品.1(明治33年刊,以下『美術画報.1)(注3) の写真と一致する図案を125枚照合することができた中には鈴木長吉(嘉幸),海野勝現,白山松哉など当時の名工の名も含まれ,不鮮明な当時の写真資料よりも克明に作品の表情を示す貴重な資料であるといえよう。明治33年のパリ万博への出品作品を集めた際,買い上げや制作補助金を与える「優等品jと,一般応募作品,帝室技芸員に制作させた作品,東京彫工会彫刻競技会,日本美術協会と明治美術会の展覧会出品作や東京美術学校卒業制作からも収集した。いずれも何らかの鑑査を経て作品を選考してはいるものの,日本の収集方法がかなりわかりにくいかつ混沌とした状況であったといわなければならない(注4)。そうした見方の中でも,明治30年という博覧会開催の3年前から出品しようとする美術工芸品の図案募集を行うなど準備は早い段階から開始された事実から,博覧会にのぞむ幹部の意気込みだけは十分感じられる。今回報告する図案がいったいどのような性格のものであったのかを探ってみるための手がかりは少ない。購入の経緯も,購入先も記録が残されておらず,唯一,しかし強力な手がかりであるのは図案のところどころに押されている「巴里博覧曾出品組合蔵記」の割印と「東京市京橋直日吉町十八番地巴里博覧曾出品組合事務所」の朱印(ただし1冊にしか見られない)である。巴里博覧曾出品組合とは,明治33年パリ万博への出品ための事務手続き等を行なう臨時博覧会事務所の承認を得てこれを代行した民間の団体である巴里高国博覧会出品聯合協会と出品者との仲介を行なった各府県の出品団体の一つであると思われる(注5)。朱印のほとんどは図案の上部に押された「巴里博覧曾出品組合蔵記J印の上半分の六文字,つまり「巴JI曾JI合」の3文字と「里JI出JI蔵」の上半分のみの印影しかないが,同じ図案が2枚ある例に,片方に朱印の上部,もう一方に朱印の下部が押されているものがあったものや,同じ図案に上部と下部両方が押されているものがあったため,割り印の漢字を全部確認することができた。二枚の同じ図案に割り印を押し片方を工芸家側に渡すという方法は「温知図録」の図案に見られた「勧商局製品画図掛印J,I商務局製品画図掛印jおよび「博物局製図記」の例(注6)に従っていると推測できる。巴里高国博覧会出品聯合協会の顧問に『温知図録Jの制作を直接担当した塩田真が任命されており,そのやり方の影響が見られでも不思議はない。

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