鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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~196 合が不可能で、あり,闘はl点の棚の側面図および部分図であるため,たまたま写真には写っていない作品である可能性もある。これらのうち同■闘は質的にも量的にも見本帖のような図であり,他の巻と違って具体的な作品の図案ではなく,図案を考えるための題材と見られる。これによって『下図類j960枚のすべてが明治33年のパリ万博出品作品とはいえないと結論づけるが,資料の入手先や経緯がわからない現状では推測の域を出ないが,これら部分模様や輪郭図の図案はその形式から見て制作にあたっての参考に使われたものである可能性は否定できない。図案に記載されている記述の中に朱筆でその図案に関する指導や意見が見られる。『下図類蒔絵硯箱手箱三Jの佐々木弥太郎作「春野図小函jについて「雑子ノ首少シ長スギルト思フ」と書かれ,r下図類彫刻置物八』の籾井菊寿老作「鳩JC図15Jについて「鳩ノオデコヲ直ス代価不相当ニ見受ル林」と指導している。山本鹿州作「双鹿JC図16Jに対しても林は蝋型を見ないと判断がつかないと記しており,輸出品のパリにおける相場に詳しくまた形やその制作方法までにおよぶ指導をこなせるだけの立場の人である。ここで思いつくのは若い頃から起立工商会社で通訳兼販売員を勤めたのに始まり,パリで美術商として活躍し,出身の高岡の銅器職人に対して輸出するべき工芸品の理念を説いたり,1898年のパリ万博の臨時博覧会事務官長,さらに当図案資料が目指した1900年のパリ万博の事務官長も勤めた林忠正(注7)がまず浮かぶが,これ以上の証拠は残念ながら現時点では見当たらない。事務官長が果たしてどこまで具体的な出品作品I点ごとの指導をしたかどうか疑問も残るが,林忠正が日本美術協会の常会で述べているパリ万博に臨む言葉(注8)によれば,日本の出品物の中で最も見物客の眼につくのは「工芸品美術品」であるという考えならば,事務官長として万博を成功させるためにはその分野の出品物に注目しないわけはないであろう。もし図案の記述が林忠正による指導であるならばその意味は大きいが,今後さらに追及すべき点である。今回の調査研究では図案に描かれた実作品までをつきとめることはできず,原資料の現段階までの分析までとせざるをえない。しかし『温知図録』と同様にまずは資料の存在を研究者に知らせ,網羅的に公開することによってこの時期の工芸品の研究を促進させることが主目的であり,現在はその目的に従って撮影した全図案のディジタル画像を研究者に提供できる準備を進めつつあることを付記して報告とさせていただきたい。

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