鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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(198X178mm)の紙に表わされたこの作品は,おそらく19世紀にコピーされたと想定存在はかねてより知られていたが,その図版はこれまで出版されなかった。資料的価値を考慮し,パンベルクのコピー作品について報告することにしよう。ほほ正方形されるだけで,作者をはじめ詳細は分かっていない。デューラ一作品では,下半分が空白のまま残されたが,このコピーでは紙全体に図像とテキストを配している。コピーの質の高さから,明らかに原本を間近で、写したとしか考えられず,ファウントラーがインスブルックで所蔵していた前述の時期に,ある美術家によって写された可能性が高い。原本の一行目にあるデューラー自身による書き損じまでも正確に写されているが,異なるのは,テキストが原本の改行とは関係なく13行で写されていること,また,天から落ちる大水がデューラーでは15本認められるがこの素描では13本しか確認できないことである。この作品を所有していたのは,1798年にパンベルク商人の息子として生まれた美術史家ヨーゼフ・ヘラーであった。ヘラーは,ニュルンベルクでの修行中,芸術に目覚め,多数の美術作品を購入し,その中にこのコピーが含まれていた(注8)。ヘラーは著作『アルブレヒト・デューラーの人生と作品』中で,欧川各地に所在するデ静ユーラー作品を調査し,このコピーをバンベルク所在の80作品目として挙げ,その原本がインスブルックのファウントラーの元にあると記述している。皿.洪水の予言と夢本素描に関する研究の始まりは,テ守ユーラーがネーデルラント旅行中に擢ったマラリアの体調不良に起因する悪夢とした1844年のタウジンクの説である。その後,デューラーの病気原因論ではなく,当時ドイツを席巻していた終末思想との関係を指摘したローゼ、ンタールは,短いながらも「奇妙な出来事と記録jに関する興味深い論を展開し,続く研究に刺激を与えた。彼が〈幻影〉との関係で取り上げたのは,1503年の「十字架の雨J奇跡である〔図4J。テーューラーは『覚書』断片で,以下のように記している。「私が全生涯中に見た最大の驚異は,多くの人々,とりわけ子供たちの上に十字架が降った1503年の出来事であった。その中から私はここに写したような形のひとつを見たが,それはピルクハイマ一家の裏手に座っていたアイラ一家の女中の麻の下着に落ちたのであった。彼女はそれを悲しんでひどく泣叫んだ。なぜなら,彼女はそれゆえに死ななければならないと畏れたからである。J(注9) -208-

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