②親晋南北朝時代壁画墓の研究一一正面向き墓主図像を中心として一一研究者:神戸大学大学院文化学研究科博士課程中国古代墓室壁画における墓主の図像は側面向きと正面向きの二種類に分けられる。後漢後期まで側面向き墓主像は墓主図像の基本的なスタイルとして流行してきたが,後i莫末,正面向き墓主像が墓室壁画に登場すると,側面向き墓主像と並存し,貌晋南北朝時代が終駕を迎えると共に,正面向き墓主{象も歴史の舞台から消えてしまったのである。歴史の転換期である貌晋南北朝時代に正面向き墓主像が存在していたということは,墓主図像の多様性は当時の民族の多様性,文化の多様性と密接に関連していたのではないか。本稿はこの正面向き墓主像について,その民族性,地域性,時代性,また神格化という問題から論じていくものである。第一節東貌北斉正面向き墓主像東貌北斉時代の21基の壁画墓の中に,正面向き墓主像が描かれている壁画墓は茄茄公主墓(注1),高潤墓(注2),婁叡墓(注3),金勝村壁画墓(注4),道貴墓(注と直接関連すると想定した上で,五つの壁画墓の被葬者の所属民族について検討していく。茄茄公主は,東貌の丞相である高歓九番目の息子の幼奏で,茄茄主阿那壊の孫であり,隣和公主とも呼ばれ,13歳の時に早逝した。高氏家と茄茄公主の婚姻はまったく政治外交のために結ぼれたものである(注6)。茄茄(注7)は,嬬嬬(注8),丙丙(注9),柔嬬(注10),柔然(注11)と呼ばれ,4世紀ごろから6世紀中ごろまで蒙古を支配した遊牧民族であり,南北時代特に北貌が分裂した北朝の晩期における北方草原地帯の強大な政治軍事集団として,中原王朝に大きな影響を与えたのである。また高潤は,東貌北斉の皇族,高歓の十四番目の息子である。高歓一族の出身について,『親書・高湖伝.1(注12)と『北史・斉神武帝紀.1(注13)の記載によれば,溺海郡藤県の漢人の豪族高氏であり,I累世北遁,故習其俗,遂同鮮卑J(注14)した,いわゆる「胡化漢人」である(注15)。しかし,日本の学者演口重国氏を始め中日両国の学者はこれらの記載に対して疑問をもち,高氏の世系は偽造されたものであると提唱していた(注16)。つまり,北斉高氏は漢民族でないという説である。中でも,呂春盛氏は文5 )の五つである〔図1,2 J。正面向き墓主像の民族性が,墳墓の被葬者の所属民族柴生芳14 -
元のページ ../index.html#23