鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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⑮ 若き日のミケランジ工口とマサッチオ研究者:早稲田大学非常勤講師亀崎I ミケランジエロ・ブオナッローティは,フィレンツェの旧家であったブオナッローテイ家のロドヴイーコの子として,ロドヴィーコがカプレーゼ(Caprese)とカゼンティーノのキウジ・デイ・ヴェルナ(Chiusidi V巴ma)のポデスタの任にあった時にカプレーゼで生まれた。その任期の終了とともにロドヴィーコはフィレンツェに戻る。住まいは,サンタ・クローチェ聖堂界隈のヴイア・デイ・ベンタッコルデイ(Viadei Bentaccordi)にあった(注1)。やがて,ミケランジエロは,文人的教養を身につけさせようという父親の計らいで,フランチェスコ・ダ・ウルビーノの許へ遣られる。しかし,ミケランジエロは,そこでの読み書きの修得よりも素描に興味を示し,親しかったフランチェスコ・グラナッチの紹介で彼の師匠であるドメニコ・ギルランダイオの工房に出入りするようになり,1488年には3年契約でギルランダイオ工房に入る(注2 )。今日よく知られているミケランジエロの手になる習作のためのジヨットやマサッチオのフレスコ画の素描は,一般にこの時期に位置づけられる(注3)。ミケランジエロは,サンタ・クローチェ聖堂のペルッツイ家礼拝堂にジヨットが描いたフレスコ画の一場面〈福音書記者ヨハネの昇天〉の左端の人物群を模写しているが,これは単なる模写ではない。彼は,プロト・ルネサンス期の巨匠のフレスコ画における求心性とともにモニュメンタリティーを具えた人物表現を,15世紀末の盛期ルネサンス初頭に相応しい,より大きなスケールのものへと再構築しているのである。ミケランジエロは,サンタ・クローチェ聖堂の地区に居住していたために,幼い頃から自らの教区教会にあるジヨットのフレスコ画に慣れ親しんでいたに違いない。それ故に,サンタ・クローチェ聖堂のパルデイ家及びペルッツィ家両礼拝堂のフレスコ画は,ミケランジエロの真の師匠であったと言えるのであるが,では,マサッチオはミケランジエロにとってどのような存在であったのであろうか。ヴァザーリによれば,ミケランジエロは,数多の美術家たちと同様に,サンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂のプランカッチ家礼拝堂におけるフレスコ画を熱心に模写勝E 221

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