鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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波打つグラデーションを施すのではなく,平面性を保持しながら厚みを変えてゆくという方法がとられており,この作品は,彫刻の素材を尊重するという点で彫刻的であると同時に,絵画的平面性を意識しているという点で絵画的であることが分かる(注の分配とアナニアの死〉における幼児を抱く婦人との著しい共通性が看取されるのである。ミケランジエロの十代半ばのこの作品は,彼がドメニコ・ギルランダイオの工房を出て,ロレンツオ・デ・メデイチから手厚い庇護を受けてヴィア・ラル芳、のメデイチ宮に住まわされていた時期にあたる。此処で興味深いことに,ミケランジエロは,それまでの美術家たちとは異なり,工房での正式な徒弟奉公を長く務めることなく,いわばアカデミーのような環境の中で白己の芸術性を開花させたのである(注9)。ミケランジエロは,その当時,ベルトルド・デイ・ジョヴァンニの指導の下,サン・マルコのメデイチ家の庭園内に並ぶ古代彫刻を学んでいた。ベルトルドはドナテッロの弟子であったので,彼がドナテッロの彫刻の継承者であったとすれば,ミケランジエロは,ドナテッロの彫刻の大理石像に見る無骨なほど堅固なスタイルが自らの造形芸術において如何に重要な意味をもつかを彼を通して知り得たであろう。何れにせよ,彼ベルトルドがいわば必然的にドナテッロ的な彫刻制作を指導したであろうことは想像するに難くない(注10)。例えば,1492年にロレンツオ・デ・メデイチが他界する少し前に完成したとされる〈ケンタウロスの戦い〉では,ベルトルド・デイ・ジョヴァンニ作になる古代ローマの石棺彫刻の模刻と言われる〈騎馬戦〉に「ラピタイ族とケンタウロスの戦い」という主題を付与して,それを明快に簡略化しているのである(注11)。また,後のユリウス2世廟の〈モーセ像〉にドナテッロの〈福音書記者ヨハネ〉の威厳とも呼ぶべきものが感じられることからも,ミケランジエロが彫刻における優れた先達としてドナテッロを念頭に置いていたであろうことは確かである(注12)。そして,マサッチオが,<貢の銭〉でのキリストを取り囲む使徒たちに見られるように,フイレンツェ大聖堂カンパニーレのための預言者像を初めとするドナテッロの彫刻作品の多くを自作に活かしているという姿勢は,そのまま若き日のミケランジエロの創作態度にも相通じていた。ミケランジエロは,ドナテッロの彫刻に自らが岨唱すべき祖型を見出し,そしてそれと同じ古典的写実性の原型をマサッチオの絵画に求めたに相違ない。それは,その証左として,前述の筋肉隆々とした幼児の他にも,やはりブ8 )。その意味で,この〈階段の聖母〉では,マサッチオ作の壁画の一場面〈共有財産-223-

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