皿ランカッチ家礼拝堂フレスコ画連作のうちの〈法座の聖ベテロ〉の下に脆く後ろ向きの人物に依拠していると思われる人物の素描が残っているからである((サグラSagra)の素描の裏面)。更には,同礼拝堂の〈改宗者の洗礼〉の場面後方に現れる顔の表情と同じタイプが〈ケンタウロスの戦い〉にも見られるという事実をアレッサンドロ・パッロンキは指摘している(注13)。れ,ボローニャからヴェネツイアに入る。しかし,ヴェネツイア派の移ろいやすい華やかなスタイルはミケランジエロの意に沿うものではなかったらしい(注14)。そこには僅かな期間滞在したに過ぎず,ミケランジエロはボローニャに下り,当地の名士であったフランチェスコ・アルドヴランデイの許に身を寄せて,ダンテ,ベトラルカ,ボッカチオの著作に親しみその地でサン・ドメニコ聖堂内の聖ドミニクス聖遺物廟のために3体の大理石小像を制作する(注15)。それらは,その聖遺物廟の仕事に携わっていたボローニャ派の彫刻家ニッコロ・デッラルカが1492年に他界したために着手されずにいたのである。まず,燭台持ちの天使では,それと対をなす優雅で繊細なニッコロ・デッラルカの天使と比べると,衣紋表現においてヤコポ・デツラ・クエルチャ風の柔らかな膨らみがあると同時にフィレンツェ派固有のモニユメンタルで明快な造形性が際立っている(注16)。また,聖ペトロニウス像には,フェッラーラ派に独特で、,ヤコポ・デッラ・クエルチャの彫刻でも特徴的な,より豊かで、絡み合う衣壁が見て取れる(注17)。それは,聖プロクルスにおいても同様である。が,此処でもやはり,フィレンツェ派に固有の理知的な造形的伝統が息づいている。というのは,<貢の銭〉でベテロからコインを受け取る収税吏のイメージの記憶がそこに表出しているが故である。そして,聖プロクルスの顔の表情は,サヴォナローラが処刑された後の真の共和制時代における自治の象徴としてのダヴイデ像に再び表れる。ミケランジエロがマサッチオとジヨットを知何に尊敬していたかは,先述の素描による模写に認められる。それは,この芸術家の中における美術史家的な意識の芽生えの発露であったのかも知れない(注18)。それ故に,原作の鑑識者たる素描家は,模写の対象を客観視し,過渡期の様式が革新的に変化する時代にあったので,模写の対象1494年にシャルル8世がフイレンツェに入城する前に,ミケランジェロは自国を離-224-
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